Asteroid City(2023 アメリカ)
監督/脚本:ウェス・アンダーソン
製作:ウェス・アンダーソン、スティーブン・レイルズ、ジェレミー・ドーソン
製作総指揮:ロマン・コッポラ、ヘニング・モルフェンター、クリストフ・フィッサー、チャーリー・ウォーケン
撮影:ロバート・イェーマン
美術:アダム・ストックハウゼン
編集:バーニー・ピリング、アンドリュー・ワイスブラム
音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:ジェイソン・シュワルツマン、スカーレット・ヨハンソン、トム・ハンクス、ジェフリー・ライト、ティルダ・スウィントン、ブライアン・クランストン、エドワード・ノートン、エイドリアン・ブロディ、スティーブ・カレル、マット・ディロン、ウィレム・デフォー、マーゴット・ロビー、ジェフ・ゴールドブラム
①物語を無効化する奇妙な語り口
ウェス・アンダーソン監督、毎回、自分の中で上手く消化できない、上手く言語化できない映画の作り手です。
この文章は通常のレビューじゃなく、言語化できないものをどうにか言語化しようとする試みです。
考えながら書いてるので混乱してるし、褒めてるんだか貶してるんだか分からない内容になっちゃったけど。
でも、映画がすごく面白かったのも確かなんですよ。
でも、この映画の何が面白かったのか?と問われると、言葉にできないのです。
ウェス・アンダーソン監督の映画では、僕が通常映画を観るときに頼りになる要素…「物語」とか、登場人物の「感情」とか言ったものが、最初にスパッと取り払われてしまっています。
だから、常にものすごく大きな欠落を抱えながら観ることになります。
本作の場合、最初に「架空の舞台劇の出来るまでを再現したメイキングのテレビ番組」という外枠が示されます。
テレビ司会者「アステロイド・シティは存在しません。この番組のために作られた架空のドラマです」
「1955年の砂漠の町アステロイド・シティを舞台にした物語」、つまり本作のメインとなるストーリー部分は、「架空」であるということが、いちばん最初に明示されます。
念の入ったことに、単なる「舞台劇の再現」ですらないんですね。「番組のために作られた架空のドラマの再現」だから、舞台劇として実際に上演すらされていない。それを作っていく過程として描かれているところまでが、作りごと。
なので、本作の中で繰り広げられる様々なドラマ…妻を亡くしたお父さんと子供たちのドラマとか、天才発明少年たちのドラマとか、宇宙人がやって来て軍が隠蔽してドタバタ騒ぎのドラマとか、そういうものは常に本気の感情移入の対象にはならない。
これフィクションですよ!と最初に大声で念を押されてますからね。
書き割りのような背景、シンメトリーの不自然な構図、定位置に棒立ちの役者たち、感情を込めない無表情な演技…といったいつものウェス・アンダーソン演出が、作りものであることを強調していきます。
②映画の中にある虚構という必然
これ、考えてみれば奇妙な話で。
映画が「作りものであること」って、そんなのもちろん誰しもが初めから分かってるんですよね。
脚本がある。演出がある。登場人物は俳優が演じている。劇中でいくらピンチになっても、もちろん本当に危ない訳じゃなく、そのふりをしているだけ。
映画ってそういうものだから、もちろんそんなことは百も承知で、我々はそれでもそこに感情移入して、泣いたり笑ったり、手に汗握ってハラハラしたり、するんですよね。
舞台だって同じですね。映画よりもっとセットがむき出しで、作りものであることは一目瞭然だけど、それでも観客は想像力でその隙間を埋めて、深く感情移入し没入していく。
人間には、虚構を現実のように捉えて心を動かすことができるという「能力」があって、映画とか演劇とか、およそフィクションというものはその土台の上に成り立っている。
だから映画でも演劇でも、作り手はそれが虚構であることを忘れさせるために、全力を尽くす訳です。
映画なら精巧なセットや美術、特撮やCGを駆使して、現実と変わらない空間をそこに出現させる。
演劇ではそういうことは出来ないけれど、俳優が熱を込めた芝居をすることで、伝わる感情を本物だと思わせる。美術の面では映画に劣るけれど、生身の人間が同じ空間で演技するというのは、舞台の利点だと言えます。
いずれにしても、フィクションの作り手は観客が「それが虚構であるという大前提」を忘れるよう努力します。それはもう、技法とか以前の当たり前のことですね。
観る側もそういう文法に慣れ親しんでるから、いちいち虚構を意識したりしない。スッとフィクションの中へ入っていきます。
この時、虚構性を意識せずスッと入っていけるかどうかが、作品の上手下手を分けるという言い方もできますね。
本作でも、観客はいつもの習い性で、フィクションの中に入っていこうと(自然に)するのだけど。
ウェス・アンダーソンはそれを許さないんですよね。冒頭から虚構性を強調し、時々外枠のメイキングに画面を戻し、絵作りも作りものっぽさを追求して。
観客に「これが虚構であること」をいちいち思い出させて、没入を妨げる。それをあえて、わざとやっている。
③語りたい物語はなく、ただスタイルのみを語る
そういう作りから感じるのは、物語の重要度が低いということ。
というか、語りたいのは物語の中身ではない。
前作「フレンチ・ディスパッチ」は、廃刊される雑誌の最終号を作るという外枠があって、それぞれ違う編集者が書いた3つの記事をオムニバス形式の「再現」で見せていくという構成でした。
ここでも、語られる物語はあくまでも「雑誌の記事(の再現)」なのでね。
その3つの物語が並べられていることに取り立てて意味はないし、3つ合わせて何らかのテーマが浮き出てくる…という訳でもない。
雑誌ってそういうものじゃないですからね。
「フレンチ・ディスパッチ」で見せようとしていたのはだから物語の中身ではなくて、むしろ外枠。雑誌記事としての「スタイル」そのものでした。
書き手が違うことで文体が変わってくる、その記事ごとの雰囲気の違い。
背景とする場所、風景の面白さ。
登場人物の個性。キャラクター性の面白さ。
つまりはスタイル。何を語るかではなく、どう語るか。
つまりウェス・アンダーソンの映画では、よく言われる絵画的な構図や、独特の色彩、凝りに凝った美術や衣装。
更には誰が(どんな俳優が)それを演じるかまでも含めて。
それらスタイルこそが主役であって、物語はそれらを見せるためにとりあえずあるだけの副次的なものに過ぎない。
「アステロイド・シティ」においても、1950年代のアメリカの佇まいやファッション、砂漠のモーテルの風景、50年代SF的な科学と軍の対立する構図、核実験と空飛ぶ円盤や宇宙人…といったディテールこそがまず主役なのであって。
そこで語られる物語そのものには、基本的に意味はないのだと思います。
④見せたいのは物語が混乱していくプロセス
本作が「フレンチ・ディスパッチ」より一段踏み込んでいると思えるのは、登場人物自身が物語の「意味のなさ」を指摘すること。
主人公が「こんな話、意味が分からない。主人公の気持ちも分からない。こんなのもうやってられない」と叫んで現場放棄をしてしまうところですね。
「アステロイド・シティ」は舞台劇なのだけど、カットされたシーンがいくつかあって、その結果登場人物の心理や物語の意味が分からなくなっている。
主人公と亡くなった妻との重要なシーンがカットされていて、その結果主人公の気持ちの変化が分かりにくくなっている。
現場を逃げ出した主人公が元妻役の女優(マーゴット・ロビー)と対面する場面は、本作でもっとも情緒的な場面で、意外にも感情的な高まりを感じさせられるのですが。
しかし、このシーン自体も実際は「再現」なんですよね。これはメイキングのテレビ番組なので。
これもいちばん始めにテレビ司会者が説明してくれているのだけど、本作が「架空の演劇のメイキングのテレビ番組」という複雑な入れ子構造になっているのは、それによって「劇作りのプロセスが分かりやすいから」なんですよね。
つまり、劇とか映画とかフィクションを作る過程では、大事なシーンが欠けてしまったり、アクシデントでシーンの意味が変わってしまったり、そういうことが往々にして起こる。
その結果、出来上がった物語は意味の分からない混乱したものになったりする。
だから本作は端的に言えば、劇作りのそのようなプロセスを「分かりやすく」見せるレポートであって、それ以上でもそれ以下でもない。
物語が難解に見えるのは、それだからなんですね。「物語が意図せず難解になっちゃうプロセス」を見せている。
それも、最初からそう言ってるやん!というね。
⑤映画という媒体を使ったごっこ遊び…?
終盤に「出演者たち」によって連呼される「目覚めたければ眠れ」という印象的なフレーズ。
これも深いことを言ってるようで、実に当たり前のことを言ってますよね。
原語では「眠らなければ目覚めることはできない」だったから、ますます当たり前感が強まります。
「生まれなければ死なない」とか、「上がらなければ下りられない」とか。
このフレーズは演出家と脚本家、出演者による討論の中で出てきます。
話題は「登場人物が皆眠ってしまうシーン」で、これもまた「カットされたシーン」でした。
「アステロイド・シティ」の物語としての意味のなさを踏まえれば、演技論としてのこのフレーズは、「演じるためには、物語の意味やテーマなどを分かろうとするのではなく、眠るようにして無意識に身を委ねるべきだ」とでも解釈できるでしょうか。
そしてそれが、物語を理屈で解釈するのではなく、表層のスタイルを重視するウェス・アンダーソンの姿勢に通じてくるのかもしれない。
…とか言ってるのもやっぱり無用な深読みで、本当にただ当たり前のことを言ってるだけかもしれない。
いつも楽しそうなんですよね、ウェス・アンダーソン監督。前作はただ映画という媒体を使って「雑誌作りごっこ」をやってるようだったし。
今回は映画という媒体を使って、「舞台劇作りごっこ」を楽しんでるだけかもしれない。
たぶんウェス・アンダーソンの映画というのは、彼が趣味でプラモデルか何かひたすら作ってるところをただ見せている…というのがいちばん近いのではないかと、そんなことも思ったりします。
それだけ自由な作品作りをしていて、語りたい物語は別になくて、それでいて何となく面白い映画にしちゃう訳ですからね。なんかもう、逆にすごい!と思うのです。