Guardians of the Galaxy Vol.3(2023 アメリカ)

監督/脚本:ジェームズ・ガン

製作:ケヴィン・ファイギ

製作総指揮:ルイス・デスポジート、ビクトリア・アロンソ、ニコラス・コルダ、サイモン・ハット、セーラ・スミス

撮影:ヘンリー・ブラハム

美術:ベス・マイクル

編集:フレッド・ラスキン、グレッグ・ダウリア

音楽:ジョン・マーフィー

出演:クリス・プラット、ゾーイ・サルダナ、デイヴ・バウティスタ、カレン・ギラン、ポム・クレメンティエフ、ヴィン・ディーゼル、ブラッドリー・クーパー、ショーン・ガン、マリア・バカローヴァ、チュクーディ・イウジ、ウィル・ポールター、エリザベス・デビッキ、シルヴェスター・スタローン

①MCUはさておき、やっぱり面白い映画!

タイトル長いので書けなかったけど、本稿はネタバレありです。ご注意を。

 

アメコミ映画に関しては、そこまで濃いファンではないのです。

MCUも、映画館でやるものに関しては、一応ずっと追いかけていたのだけど。

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を観た時に、映画でなく配信の番組の知識が前提になっていて、かなり興醒めになりました。

「ソー:ラブ&サンダー」「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」「アントマン&ワスプ/クアントマニア」は、遂にスルー

と言っても別に嫌ってるわけではないので、今後も面白そうなら観に行くだろうとは思いますが。

 

今回久しぶりに「MCUもの」を観て。で、めちゃくちゃ面白かったわけですが。

結局、シリーズがどうとかクロスオーバーとか関係なくて、その1本が映画として面白いかどうかがすべてだなあ…と、あらためて当たり前のことを思ったのでした。

 

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」、キャラクターを好きにさせるのが、本当に上手いと思います。毎回。

主要なメンバーたちだけでなく、クラグリンとか、宇宙犬コスモとか、アホマッチョのアダムとか(ウィル・ポールター!)、それにロケットの回想の中の改造動物たちも、みんな心から好きになってしまう

 

だから、映画への感情移入がどんどん上がっていって。

それでエンタメ的に「燃える」のはもちろんなんだけど、それだけではなくて。

感情移入が高まることが、映画のテーマを伝える上でも、非常に効果的に生かされている。そこが感心するポイントでした。

 

②ロケットの孤独と疎外感

今回はロケットの物語

“はみ出し者揃い”がガーディアンズの特徴であるわけですが、その中でも「人間でさえない」ロケットは最大のはみ出し者と言えます。

 

スペースオペラである本シリーズでは異星人がいっぱいで、肌も緑色とか青とかだし、異形の人はいっぱいいるので多少のマイノリティは目立たないのだけど。

でもその中でも、ロケットは大きなカテゴリーとして、人間の一員とは言えない

かと言って、動物でもない。知能が高すぎるロケットは、今さらアライグマの仲間にも入れない。

 

どのグループからもはみ出してしまって、自分のような奴は自分一人きりであるという、ロケットの深い深い孤独と疎外感。それは、ガーディアンズの仲間たちを得て明るく過ごしている今になっても、消えないんですね。深く、ロケットの内面に染み付いている。

それを、「あの娘は天使だけど、僕はウジ虫」と歌うレディオヘッドの「クリープ」で、冒頭スルッと共感させてしまう。

素晴らしい音楽演出が、今回も冴えています。

 

やっぱりみんなガーディアンズのシリーズが大好きなのは、この孤独と疎外感に誰しも共感するからだし。

その上で、同じ孤独と疎外感を分かり合う仲間が集まって強いチームになるという、美しい神話になっているからだと思います。

③ロケットの先に、動物に共感するということ

ずっと登場人物たちの孤独と疎外感(そしてそこからの「仲間」による救い)を描いて来たのが、本シリーズですね。

その中でも、「人間と動物」という大きなグループからさえ仲間外れにされたロケットは、究極の存在と言える。だからこそ、完結編の中心になるのでしょう。

 

そんなロケットの物語は、動物実験の犠牲者だったというもの。

ものすごく残酷で、ヴィランへの憎悪が募る「過去編」が描写されるのだけど。

でも考えてみれば、動物を人間の勝手な目的で使い捨てにする動物実験は、絵空事じゃない。

現在も、現実の社会の中でも、ずっと行われ続けてるものなんですよね。

荒唐無稽なスペースオペラを観てると思ったら、思わぬ形で問題提起を突きつけられる。ドキッとさせられる。

 

ただ漠然として「動物実験は是か非か」を問うと、そうは言っても製薬は大切だし…とか、割と簡単に肯定できてしまうのだけど。

でもそこに、動物の側に感情移入するという想像をしてみた時、どう感じるのか。

 

多くのファン、特に若い人たちは、決して正しいヒーローではなく、銀河のはみ出し者たちであるガーディアンズに、自分を投影して共感すると思うのです。

そして、人間からもアライグマからも疎外され「僕はクリープ」と感じるロケットの悲しみ、苦しみにも共感する。

そこで想像をもう一歩進めて、動物実験に使われる「物言わぬ動物たち」にも共感できないか?と投げかけている。

 

ヴィーガンとか動物実験反対運動とか、割と簡単に冷笑してしまいがちじゃないですか。

でも、決して「動物実験ダメ!」とか決めつけるのではなくてね。

説教するんじゃなく、答えを示すのではなく、想像し、考えることを促してる。

若い人たちに向けたエンタメ作品のバランスとして、すごく意欲的だし、意識的なんじゃないかと思います。

④私がお前の父だ?それがどうした!

動物への共感を今回の核として、シリーズ全体を貫く太いテーマが「父との関係」です。

1ではピーターとヨンドゥとの擬似的な父子関係。

2ではピーターと実の父エゴとの父子関係。

3では、ピーターが故郷に帰り、祖父と再会する様が描かれます。

 

ガモーラとネビュラの姉妹と、父となるサノスの関係は「アベンジャーズ」の方まではみ出していく重要なテーマだし。

ドラックスは自身が父であって、「ダメな父」であり、3では救出した子供達の父になっていきます。

そして本作では、ロケットが自分を作り出した父ハイ・エボリューショナリーと再会し、落とし前をつけることになります。

 

父と子の関係が軸になるスペースオペラと言えば、誰もが「スター・ウォーズ」を思い出すわけですが。

あちらの時空では父と子は最後に和解し、通じ合うことができましたが、こちらでは父は最後まで分かり合えず、倒して乗り越えていく存在として描かれています。

エゴ、サノス、ハイ・エボリューショナリー。主要登場人物の「実の父」であるキャラクターは、本シリーズでは最後まで徹底して「クズ」でしたね。

 

「スター・ウォーズ」的な、「たとえ一時は敵であっても、最後には必ず心が通じるはず、だって親子なんだから」という「血の呪縛」を、本シリーズは何とかして打ち払おうとしている。そんな印象を受けます。

それはやはり、「実の親による虐待」が大きな社会問題となる時代を背景とした変化だと言えるでしょうね。

 

実の親から酷い虐待を受けていても、それでも子供が自分から逃げ出すことができない場合がある。

それはやはり「親だからいつか愛してくれるはず」という期待を、子供なら当然持ってしまうものだし。

「そうは言っても、血の繋がった親子なんだから」という社会の常識が、プレッシャーになってしまうこともあるのだと思います。

 

それを打ち破りたい。血の繋がりなんてものを神聖視して虐待に耐える必要なんかなくて、クズにはクズと言っていいんだ!ということ。

そして、心が通じ合う仲間との絆の方が、血の繋がりなんかよりずっと価値があるということ。

本作は一貫してそれを言ってきたし、最後までブレずに貫き通しましたね。

⑤ガモーラの物語の落とし前

…という、エンタメとしてもテーマとしても、すごく分厚い作品だと思うし、観てない人に勧めたい!と思うのだけど。

でも、未見の人にそう簡単には勧められない…というのが、MCUの大きな弱点だと思います。

3部作だけ観てればいい、とは言えないからね。ガモーラに関する極めて重要な部分が、「インフィニティ・ウォー」「エンドゲーム」を観てないとさっぱりわからない。

でもその2作を観るためには、これまた膨大な作品を観ておく必要があるという。

今から新参の人が参加するハードルが、非常に高い。

 

僕がこのシリーズですごく不満なところが、このシリーズ外のところ、アベンジャーズで描かれた部分なんですよね。

ガモーラの物語は、全然落とし前がついてないと僕は思う。

サノスの娘という過酷な運命を背負ったガモーラは、何らかの決着に達することなく、サノスに目的のためのコマとして殺されるという極めて不当な打ち切りを迎えて、それっきりになってる。

これって、本作で言うならロケットがハイ・エボリューショナリーに殺されてそれっきり、というのと同じことですからね。

それならばピーターが怒りに燃えてサノスに復讐するのが普通の作劇だけど、そこはアベンジャーズの領分で、蚊帳の外になっちゃってる。

「インフィニティ・ウォー」と「エンドゲーム」、すごく面白い映画だったと思うけど、でもそこだけは今でもやっぱりちょっと納得いってないのです。

 

別のマルチバースのガモーラが…って、それ別人ですからね。本人が言うように。

そんなのいくら出してきても、あのガモーラの物語の落とし前にはなり得ない。

ジェームズ・ガンもそれがわかってるから、ピーターが無力感に溺れて飲んだくれてる導入にしたんだろうし。

ピーターと新ガモーラを安易にくっつけず、それぞれの道を歩ませることにしたのだろうと思います。

 

今後MCUがどうなっていくかはわからないし、僕はそこまで熱心なファンじゃないので、口出しするものでもないのだけど。

できればせいぜい2〜3作観れば全容が掴める範囲にとどめて、せっかく育てたキャラが別の作品で使い捨てにされない方がいいなあ…などと思います。

 

『レディオヘッド「クリープ」がつなぐ2本の映画』というタイトルで、本作と「フリークスアウト」について書いたコラムはこちら。