The Whale(2022 アメリカ)
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:サミュエル・D・ハンター
製作:ジェレミー・ドーソン、ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル
撮影:マシュー・リバティーク
編集:アンドリュー・ワイスブラム
音楽:ロブ・シモンセン
出演:ブレンダン・フレイザー、セイディー・シンク、ホン・チャウ、サマンサ・モートン、タイ・シンプキンス、タリア・スリードラハン
①ブレンダン・フレイザーの力演!
チャーリー(ブレンダン・フレイザー)は恋人のアランを亡くして以来、過食と引きこもり生活を続け、今では体重270キロの巨体になっています。看護士のリズ(ホン・チャウ)は一人では何もできないチャーリーの世話を続け、病院に行くことを勧めますが、チャーリーは拒否します。自分がもう長くないことを知ったチャーリーは、8年前にアランと付き合うために捨てた家族に連絡を取り、娘エリー(セイディー・シンク)との絆を取り戻そうとしますが…。
「ブラック・スワン」「レスラー」のダーレン・アロノフスキー監督作品。
ブレンダン・フレイザーがアカデミー主演男優賞を受賞して話題になりました。
"270キロ"の特殊メイクで、メイクアップ賞も受賞。
ブレンダン・フレイザー。思い出すのはやはり「ハムナプトラ」ですね。
言っちゃ悪いけど、いかにも軽い感じの若手アクションスター、というイメージでした。
その後、そんなにも重い人生を歩んでいたとは、まったく知りませんでした。私生活上の問題や、業界の偉い人からのセクハラなどで、非常に辛い思いをしたそうです。
本人の物語が強調された賞レースはともかく、映画での演技は確かに見応えのあるものでしたよ。メイクのすごさもあるけど、「そんな人」にしか見えない感じでした。
②どん詰まりにも程があるどん詰まり状況
本作のオリジナルは舞台劇ということで、非常に演劇的な物語です。
舞台となるのはチャーリーの部屋の中だけ。極度の肥満で自由に出歩けないチャーリーの視点に合わせて、カメラもほとんど部屋から出ません。
得体の知れないチャーリーの"巣"みたいになってるこの部屋に、いろんな人が入れ替わり立ち替わりやってきて、濃密な会話劇が繰り広げられます。
ここにあるのは、もうとっくに「取り返しがつかなく」なってしまっている、どん詰まりの状況。
チャーリーの見た目が、まさに取り返しがつかない様を体現しているのですが。
見た目だけでなく内実も、健康状態が限界まで悪化していて、もう本当に目の前に死を突きつけられた状況にある。
で、そのチャーリーの状況は…気の毒ではあるけれど…基本的には自業自得で、自分で自分をそんなふうにしてしまったもの。
そして、彼はそうなる過程で、多くの人をめちゃくちゃに傷つけている。
夫が男の恋人に走って捨てられた奥さんも、幼くして見捨てられた娘も、めちゃくちゃに傷ついている。それはチャーリーがつけた深い深い傷で、もうまったく取り返しがつかない。
死んだ恋人の妹であるリズも。「治る意思がない患者の世話をし続ける」って、ものすごく傷つけられることだと思います。今も、現在進行形で傷つけてる。
チャーリーが死んだらそれはそれで、彼女たちをまた深く傷つけることでしょう。罪悪感や、後悔という形で。
そういう状況だから、そして本人もわかってるから、せめて死ぬ前に、ちょっとでも何とかしようとあがくのだけど。
でも、もう本当に遅すぎるんですよね。もはや彼にできることは、ほとんど何も残されていない。
何しろ、自力で立ち上がることもできないんだからね。自分のケツも拭けない奴が、他人のためになることができるわけがない。
…という、どん詰まりにも程があるどん詰まり状況の数日間を、映画は追っていくことになります。
だから、そりゃもう陰鬱だし、痛々しい。悲痛な場面が続きます。
それでも……本作は、決して目を背けたくなる、見ていられなくなる映画ではないんですね。
観るものの目を惹きつける、強い牽引力のある物語になっています。
それはたぶん、登場人物たちがみんな真剣で、懸命で、必死だから。
どん詰まりではあるけれど、それでもなお、どうにかしようとあがいている。
その真剣さが伝わってくるので、どん底状況がひとごとにならない。つい、その渦中に引き込まれてしまうのです。
③取り返しのつかない、エリーの「傷」
チャーリーは死ぬ前に罪を償おうと必死で、その対象は娘エリーになっていくのだけど。
エリーが単なる「かわいそうな娘」ではなく、「母を支える気丈な娘」でもなく、非常にクセの強い反抗心だらけの少女に育っていることが、物語をメロドラマに向かわせないスパイスになっています。
チャーリーの姿を写真に撮り、それをSNSに晒す。
宣教師トーマスの告白も、容赦なくネットにぶちまける。
ただの不良というのではなく、相手の破滅を狙うような底意地の悪さがあって、「邪悪」とまで評されてしまう。
エリーはそういう少女であると、こともあろうに母親から見なされているわけですが。
エリーがそんなふうに育ってしまったのは、幼少時にチャーリーに深く傷つけられたから…ですね。
それはもちろん、それだけではないのだろうけど。人がどんな性格になるかは様々な要因があって、原因と結果がまっすぐに結ばれるものではないのだろうけど。
でも、チャーリーの仕打ちはエリーにとっては「虐待」であるわけで。そこに影響がないわけがない。
チャーリーにとってはそんなエリーの有り様もまた、彼の罪をまざまざと物語るものに映るでしょう。
だから、チャーリーは認めようとしない。「エリーはいい子だ」と言い張る。エリーのことを知りもしないのに。
それを認めることは、チャーリーにとってまたもう一つ、取り返しのつかない罪を犯してしまっていると、認めることになるわけだから。
エリーがチャーリーを許さないのも、罵って憎悪をぶつけるのも、だから当然のことではあるのだけど。
でもそんなふうに「邪悪」に振る舞ってしまうことが、今度はエリーを深く傷つけ続けてしまう。
チャーリーの罪が、こともあろうにいちばん幸せであって欲しいはずの娘の中に深く巣喰っていて、彼女を傷つけ続けている。
地獄ですね。本作の真の地獄は、そこにあるのだと思います。
④地獄の底で届く一瞬
起こったことは、取り返しがつかない。
たとえそれが元々は「愛」を動機にすることだったとしても、人をその精神の深みに至るまで傷つけてしまうことはあって。
そしてそれは、後からどんなに悔やんでも取り返しがつかない。
本作のシビアな結論の一つは、それだと思います。
でも、それでも…ですね。
そんな地獄の底であっても、必死であがけば、ほんの一瞬だけ何かが届くこともあるかもしれない。
そして、僅かな救いが見えることがあるかもしれない。
本作のラストは、そんな奇跡のような瞬間を見せてくれます。
チャーリーに捨てられたせいで邪悪に染まっていたエリーが、チャーリーの求めに応じて、彼の愛する文章を朗読する、瞬間。
一人で立てなかったチャーリーが立ち上がって、何にもつかまらずにエリーのいる明るい戸口まで歩いていく、瞬間。
それは実際、瞬間でしかないと思うのです。その一瞬が過ぎたら、事態はたぶんもっと酷いことになる。
チャーリーは娘の目の前で倒れ、目の前で死亡し、エリーはまたチャーリーに傷つけられることになるだろう。
彼の死で皆のわだかまりが解けるはずもなく、皆は心にモヤモヤを抱えたまま、彼の死と向き合っていくことになるだろう。
それでもなお、その瞬間は奇跡のような一瞬としてエリーの心に残るだろうし、それはきっとエリーにとって、お金よりも重要な贈り物になるだろう…とも思えるのですね。
そんな一瞬、瞬間を、永遠に刻むことができる。それが映画、だと思うのです。
だから本作は、本当に見事に「映画」だったと思います。ラストシーン、素晴らしかったです。