Where the Crawdads Sing(2022 アメリカ)

監督:オリヴィア・ニューマン

脚本:ルーシー・アリバー

原作:ディーリア・オーウェンズ

製作:リース・ウィザースプーン、ローレン・ノイスタッター

製作総指揮:ベッツィー・ダンバリー、ロンダ・フェア、ジョン・ウー

撮影:ポリー・モーガン

編集:アラン・エドワード・ベル

音楽:マイケル・ダナ

主題歌:テイラー・スウィフト

出演:デイジー・エドガー=ジョーンズ、テイラー・ジョン・スミス、ハリス・ディキンソン、マイケル・ハイアット

①想像を誘うタイトル

ノースカロライナの湿地帯で、チェイス(ハリス・ディキンソン)の死体が発見され、「湿地の少女」と呼ばれるカイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)が殺人容疑で逮捕されます。彼女は幼い頃から、湿地で一人で暮らしてきました。彼女を支えたのは、テイト(テイラー・ジョン・スミス)でした…。

 

ベストセラー海外ミステリの映画化。

原作小説は未読ですが、書店で目について気になる書名ではありました。

ザリガニが鳴く? ザリガニは鳴かないよね…?

 

劇中では、暴力父と取り残される幼い主人公に母親が「危ない時は湿地の奥へ逃げろ。ザリガニの鳴くところまで」と言い聞かせています。

これはつまり、めっちゃ奥地まで逃げろってことですね。ザリガニは鳴かないから、ザリガニが鳴くところを求めてどこまでも進んで行くと、ずっと奥地まで行くことになる。

 

そして、本当に人間のいるところを遠く離れて、自然の中に自分一人だけという状況になった時。

そこまで行って、自然が立てる音だけの中に包まれると、鳴かないはずのザリガニの鳴き声さえも聞こえることがある。

そういう意味では、ザリガニの鳴くところは実際にあるとも言える。

人の理解が及ばない自然の奥深さ、底知れなさが描かれていて、そこは本作の第一の魅力だったと思います。

 

②手付かずの自然の豊穣な世界

カイアは湿地で暮らす貧しい家に生まれ、粗暴な父親に耐え切れず母も兄姉も次々逃げて行き、父と二人きり取り残されてしまいます。

やがて父もいなくなり、幼いカイアはひとりぼっちに。それでも彼女は自力でムール貝を集め、それを町の雑貨屋で交換して、たくましく一人で生き抜いていきます。

 

カイアの生い立ちは悲劇としか言いようがないのですが、でも本作がただかわいそうなだけの物語になっていないのは、湿地の豊穣な自然があるから、ですね。

町の人々にとっては湿地なんて忌むべき場所で、そんなところで暮らすなんて気が知れない…となるのだけど。

カイアにとっては、沼地は本当に心が安らぐ故郷で、決して嫌々そこにいるわけじゃない。

やがて長じると、カイアは湿地を離れることを拒否するようになり、それが町の住人の更なる偏見に繋がっていくことになります。

 

この感じは、個人的にすごくよく分かるところで。

僕は子供の頃から自然が好きで、特に昆虫好きなんですよね。昆虫とか生き物の豊かな環境には、無条件で惹かれてしまう。

整ったきれいな公園より、雑木林とか、手付かずの草やぶみたいな場所の方に面白みを感じる。

里山の雑草だらけの畦道とかね。草ぼうぼうの河川敷とか。草刈りされてない、整備されてない場所こそが生き物の宝庫だから。

でも、そういうのって一般の人にはまず理解されないですからね。虫がいる場所=嫌な場所、と感じる人がほとんどだから。

 

カイアの湿地は、外から見ているだけならただ小汚くて臭い不快な場所でしかないわけだけど。

いったんその中に入り込んでしまえば、非常に豊かな生命に満ち溢れた、豊穣な空間であることに気づきます。

たくさんの種類の鳥や魚たち。カメやカエルやワニ。無数の昆虫たち。

画面には出てこないけど、もちろんザリガニもいるでしょうね。

 

人間の知らない、人と関わりのない大きな生態系があって、生命の営みのサイクルが回っている。

その中に身を置けば、町では知り得ないこと…人間もまた自然の一部であることに気づくことができる。

普通の暮らしでは、人間の決めたルールがすべてであるように思ってしまうけど。そうでもないことに、気づく。

それが、ミステリ的な伏線にもなっていくわけですが。

③恋愛映画で、フェミニズム映画

本作は恋愛映画でもあります。カイアの成長は、彼女の前に現れる二人の男との関係を通して描かれていきます。

 

カイアは人間社会に自分から関わっていかないので、彼女の恋愛は常に受け身。

テイトにしても、チェイスにしても、向こうからやって来るのを受け入れるだけです。

町の人からはカイアは「湿地の少女」なので、そこにはどうしても「同情」や「好奇心」といった要素が絡んできてしまいます。

 

カイアに読み書きを教えたのも、出版社の存在を知らせて社会と関わるきっかけを与えたのもテイト。彼がいなくては、カイアの人生はずっと悲惨だったでしょう。

そういった描写からは、割と前時代的な、古めかしい男尊女卑の世界観が見えます。もちろん、時代背景を反映したものであるわけだけど。

 

しかしそのテイトの裏切りや、チェイスの非道が描かれていって、カイアは「男に頼って生きることの危うさ」を身をもって学んでいきます。

カイアが身につけるのは、理屈でなく実践的なフェミニズムと言えますね。

 

自分の弱さでカイアを傷つけるテイトと、マッチョな暴力性でカイアを傷つけるチェイス。

家庭をぶち壊す父親を含めて、違うタイプの「男のダメさ」が描かれていく。本作はフェミニズム映画でもあります。

そしてそのテーマが、ミステリ的なオチと不可分に結びついてるのが、上手いですね。

④ミスリードの上手さと見事な反転(以下ネタバレ注意)

死体の発見に始まり、法廷劇を通してその真相に迫っていく。本作の牽引力はミステリです。

事件自体はシンプルなのだけど、観客の心理誘導が巧みで。

最後の最後まで、驚きのある展開を楽しませてくれます。

 

ミステリ要素に触れるので、ここから先はオチのネタバレを含みます。

映画を観てない方は、この先を読まないことをオススメします。

 

カイアの人生を追体験することで、観客はすっかりカイアに感情移入させられます。

裁判でカイアを攻撃する検事や、カイアを罵るチェイスの母親は、俄然悪役として映ることになります。

これがすごく巧妙なミスリードになっていますね。

早々から「事件の真相」よりも、「陪審員への説得」を主にした作戦になるのも、上手い心理誘導になってると思います。

 

だから、最後の最後に明かされる「真相」は本当に意外だったのだけど。

後から考えてみれば、こうなることは自明なんですよね。

カイアが人生を通して学んだことは、自分が生き抜くためには、誰にも頼れない。自分の力で困難を打開するしかない…ということだったわけだから。

 

この真相が明かされることで、それまで見えていたカイアの「かわいそうな被害者」としての属性が、くるっと反転する。

不幸な生い立ちを強いられ、男たちに騙され、関係ない事件に巻き込まれてしまった弱者としての見え方がガラッと変わって。

実はカイアこそが物事の中心にいて、すべてをコントロールしていた、もっとも強い人物だったことが、ここで分かる。

 

かわいそうな少女の悲劇ではなく、沼地の少女が強さを得て、自力で人生を選び取るヒーローの物語に変わるわけです。

同じ物語なのに、ラスト1行で全部の見え方がズバッと変わる。テーマ的な納得と、ミステリとしての爽快感が見事に結合していました。

⑤湿地の奥深さと美しさ

ということは…と、観終わった後でいろいろ考えちゃいますね。

そう言えば、父親はどうなったんだろう。カイアと二人きりになって、「最初は優しかった」とか言って、でもこの先ヤバそうな、カイアが成長すると別の問題も生じてきそうな気配がぷんぷん匂っていたんだけど。

「父もいなくなった」とか、えらくあっさりと済まされてましたね。

土地と家を持ってるはずなのに、それっきり戻ってこない。カイアが有名になっても戻らない。土地と家の相続にも、問題にならない。

この都合の良すぎる退場は、もしかして…。

 

そう考えると、この湿地という場所の奥深さに、別の意味が見えてくるんですよね。

ややこしいものは、いくらでも飲み込んでくれるわけで。ザリガニの鳴くところでは…。

 

というわけで、いろんな含みも感じさせてくれる、面白いミステリ映画でした。

気になるとしたら…フェミニズム要素が今の流行りであることが、かえってちょっとノイズになっているかもしれない。

「女を殴る男」は無条件で絶対的に人権なしで、どんな扱いをしようともそれは正義である、という。

いや、この映画の中では納得いくのだけれど。現在の潮流の中ではかえって、安易さを感じないでもなかったです。

 

あと、いろいろとちょっときれいすぎやしないか?というのは思いました。

カイアがきれいで清潔そうで、沼地で野生的に暮らしてるようにはあんまり見えない。

沼地の風景も美しく撮られているので、町から見て差別対象であることが感じにくいかもしれない。

 

ただ、そこは物語に必要な美化かなとも感じました。

最初に書いたように、人間用に整備されていない手付かずの自然って、一般的には美しさを感じてもらいにくいものだから。

その中で生きているカイアが底知れない美しさを感じていることは事実で、映画はその心的印象を描き出したものとも取れる。

自然の美しさを多くの人に届ける、共感してもらうという意味では、正しい描き方だったんじゃないかと思います。