Dýrið(2021 アイスランド、スウェーデン、ポーランド)
監督:ヴァルディマル・ヨハンソン
脚本:ショーン、ヴァルディマル・ヨハンソン
製作:フロン・クリスティンスドッティル
製作総指揮:ノオミ・ラパス、タル・ベーラ、ホーカン・ペッテルソン
撮影:イーライ・アレンソン
編集:アグニェシュカ・グリンスカ
音楽:ソーラリン・グドナソン
出演:ノオミ・ラパス、ヒルミル・スナイル・グドゥナソン、ビョルン・フリーヌル・ハラルドソン、イングヴァール・E・シーグルソン
①民話の枠組みで描く独自性
アイスランドの山岳地帯で羊飼いをしているマリア(ノオミ・ラパス)とイングヴァル(ヒルミル・スナイル・グドゥナソン)夫婦。ある日いつものように羊の赤ん坊を取り上げると、それは羊の頭と人間の体を持っていました。マリアとイングヴァルはそれにアダと名前をつけ、我が子として育てていきます…
これは面白かった! すごい好みの映画でした。
アイスランドの映画。アイスランドの雄大でありつつ荒涼としたスケールのデカい風景を見るだけで、新鮮なのですが。
登場する「アダという異物」の表現が強烈で、映画の佇まいをちょっと他にない、独特のものにしています。
独特と言っても、奇をてらってるわけではない。むしろ極めてストレート。
人の体に羊の頭がついていて、二足歩行するという。そのまんまの造形なんですよね。
子供の体型で、セーター着たりして、むしろ可愛い。でもリアルな羊だから不気味。
アニメキャラみたいな見え方で、ほとんど笑ってしまう感じでもある。
でも、このストレートなキャラクターが、全体の物語の素朴さの中で、いい具合にハマっている。
民話ですね、本作は。昔々あるところに、羊飼いの夫婦がおりました…。
羊から半人半羊の赤子が生まれるのも、それを迷いなく受け入れて育てるのも、桃やら竹やらから出てきた赤子を育てることを思えば、別に不思議でもない。
アイスランドという辺境の舞台だからこそ、昔ながらの民話の枠組みをそのまま持ってきても違和感なく成立するのだと思います。
たぶん低予算なんだと思うけど、唯一他では絶対に得られない地の利を最大限に活かして、オリジナリティあふれる物語にしている。
これは素晴らしい創意工夫!だと思います。
②山で育む孤独と狂気
ストレートな物語でありつつ、様々な象徴や意味を読み取ることができるのも、民話の特色ですね。
前半は特に、マリアとイングヴァルしか登場しないので、アダの存在は彼らの(亡き娘を思うあまりの)妄想であるようにも、受け取ることができます。
イングヴァルの弟のペートゥルが登場して、初めて映画に第三者の目が加わります。
ペートゥルがマリアとイングヴァルを「狂人を見るような目で」見る上に、「あれは羊だ、目を覚ませ」「ままごとには付き合えない」などと言うので、アダはただの羊で、マリアとイングヴァルにあんなふうに見えてるだけ…という解釈が説得力を持ちます。
でも結局、ペートゥルもアダをかわいがるようになっていく。
この辺り、ペートゥルが二人の狂気に「取り込まれた」と受け取ることも可能ですね。
ペートゥルがアダを湖の釣りに連れて行くところはいかにも不穏な予兆を感じさせるのですが、結果何も起こらない。
ペートゥルが最初はアダを殺そうとしていて、夫婦の実の娘であるアダが不慮の死を遂げたことを思うと、夫婦がペートゥルを全面的に信用してアダを預け、その間にセックスするのは不自然にも感じられます。
ここ、夫婦は暗黙にペートゥルがアダを殺すことを期待しているのかもしれません。自分たちが囚われている妄執を第三者が打ち壊して、解放してくれることを(無意識に?)望んでいる。その間に、アダに代わる存在になるだろう「子作り」をしているというのも意味深です。
しかし、ペートゥルはそんな面倒くさい役割は拒否しました。彼は代価としてもっと高いもの、マリア自身を要求します。
ラストでは再びマリアとイングヴァルの二人になり、妄想はより純粋になっていきます。
イングヴァルの突然の破滅は、彼が自分自身の罪悪感に殺されたと受け取ることも可能でしょう。彼を撃つのは彼自身の銃です。
マリアは妄想の共有者を失うことで、アダを失います。でもそれは、彼女にとってはようやくの解放でもあります。
…と、うがった見方を書いてみました。
妄想解釈は別にそれが正解と言いたいわけじゃなくて、そう読むこともギリギリ可能であるくらいのバランスに作ってあるんじゃないかな、という話。
こういう含みが少し残ることで、ストレートな物語に意味ありげな奥行きがもたらされていると思います。
③聖書のパロディという側面も
象徴という点では、羊は素直に聖書と結びつきます。
羊飼いに導かれる羊の群れは、神に導かれる人間の象徴ですね。
羊は神に捧げられる生贄でもあります。
人間の罪を贖うために犠牲になるイエス・キリストは「神の子羊」と呼ばれます。
マリアは処女懐胎でキリストを産むので、アダがマリアの実の子でないという設定と呼応します。
アイスランドの羊は多くが肉用種だそうです。人に食われる運命。
人間に飼われ、その運命を握られている哀れな羊たちにも神がいたとしたら。羊男は羊たちの神かもしれないですね。
クリスマスの夜に教会の鐘の音と共にやって来て、選ばれし雌羊に神の子種を授ける。
本作は神様をグロテスクな羊人間に置き換えた、聖書のパロディとしても見ることができます。
神の子アダは不届きな人間の手から取り上げられ、神の世界へ帰っていくわけですね。
北欧神話の神々は救世主とか創造主というよりは、人間世界と拮抗して存在する残酷な隣人という感じなので。
民話に登場する「巨人」や「トロール」、また日本昔話の「山の神」や「鬼」に近いものがありますね。
それらは「まつろわぬ民」の象徴だったりするので、羊人間をそういう「山に追われた民族」と解釈することもできるかもしれません。
④因果応報の着地点
ラストはバタバタと悲劇へ向かっていきますが、マリアはアダを自分のものにするために母羊を殺し、隠蔽のために埋めるまでしてるので、罪は否めない。
最終的にマリアが受ける運命は、因果応報といえるでしょう。その点でも、本作は民話としてオーソドックスであると言えますね。
羊男の出現は唐突なようですが、しかし冒頭で「父親」の存在は示されていたし、アダの姿から考えれば確かにそうなるわけで。
それにしてもこの「ストレートなビジュアル」は笑いに転ぶかもしれないギリギリのライン上という感じ。
たぶん、こいつをはっきり見せずに、どうとでも想像できる姿にとどめておく方が、「A24的不穏なホラー」としては雰囲気出たかもと思うのですが。
あえてズバリそのまま見せちゃう。
この果敢に攻めてる感じも、本作の好きなところなんですよね。
人間の側から描くと悲劇ですが、羊の側から見れば、本作はハッピーエンドになりますね。
愛する赤ん坊を人間に奪われ、何度も返してほしいと訴えに行くけれど、無惨にも人間に撃ち殺されてしまった母羊。
やがて怒りに燃えた父羊がやって来て、母羊の復讐を果たし、子供はようやく卑劣な人間どもから解放されて、本来の場所へ帰ることができました。めでたし、めでたし。
羊を家畜とする人間と、羊を追い回す牧羊犬を殺してるのが周到ですね。
猫は殺さない。猫は羊に悪いことしないからね。
⑤SF的な解釈も!
この世界の年代がいつかは明かされないのですが、ラジオのニュースで「タイムマシンを可能にする理論が発見された」みたいなことが報道されています。
これ、物語の中では浮いててびっくりするのですが、マリアが「過去に戻ることもできるの?」と、過去の後悔に囚われていることを示すため以上の意味はないように思えるのですが。
あるいは、物語の背景にこのような「SF的」なものがあること、この世界が近未来であることを示しているのかもしれない。
羊人間は、この科学ニュースのレベルではすでに実現されています。
2018年に、羊の細胞に人間の遺伝情報を加えて、羊とヒトのキメラ胚を作ることに成功したという報道がありました。
これは要するに、臓器移植用ですね。人間の臓器を持つ羊を作って、人間への臓器移植に利用する。
アイスランドの山奥で秘密に作られていた臓器移植用の羊人間が逃げ出して生き延び、羊に子を産ませて繁殖している…なんていうSF的なストーリーも、想像できなくもない…ですね。
クローン羊ドリーなんてのもあったように、羊は何かと人間に便利に利用される動物です。
その上、人間に臓器を取られるために生かされるなんてことになったら、映画に出てきた羊男が激しく怒った顔をしてたのも無理はないですね。
他にも、アイスランドの人々が(日頃あんなに穏やかなのに)ハンドボールに熱狂することを知って、びっくりしたり。
ヘンテコなMTV風ミュージックビデオが楽しかったり。意外な見どころも楽しめる映画です。
面白がっていろいろと解釈書きましたが、別にそんな見方が必要なわけじゃない。
難解さは何もなく、ストレートな民話として楽しめて、なおかつ深読みも可能。
とても面白い、オリジナルな映画だったと思います!
監督のヴァルディマル・ヨハンソンは「ローグ・ワン」などで特殊効果を担当。本作がデビューです。
ノオミ・ラパスはオリジナルの「ミレニアム」でリスベット役。