N号棟(2022 日本)

監督/脚本:後藤庸介

撮影:鈴木靖之

編集:平川正治

音楽:Akiyoshi Yasuda

主題歌:DUSTCELL

出演:萩原みのり、山谷花純、倉悠貴、岡部たかし、諏訪太朗、赤間麻里子、筒井真理子

①オマージュに注意!

本作に関しては…とりあえず細かいところは置いといて、「ミッドサマー」出し過ぎ!と思いました。

 

いや、分かるんですよ! 「ミッドサマー」の設定を日本に置き換えたら…というのは、今ホラーの構想を練ったならば誰しも絶対に考える。

大きな設定だけ持ってくるのは別にアリだと思うし、本作はその中で描かれるテーマや展開はオリジナルなので、全然問題ない…と思うのだけど。

だからこそ、露骨に連想させてしまう直接的に似たシーンは、避けた方が良かったんじゃないかなあ…と思いました。

 

もしかしたら「オマージュ」だったのかもしれない。

発想のヒントにしたからこそ、オマージュとかリスペクトを表すシーンを入れたくなる…のかもしれない。

「言い訳」って奴ですね。分かってやってるよ、パクってるわけじゃないよ!っていう。

 

なのでね。オマージュは危険!だと思うのです。

直接的に似せたシーンを入れちゃうと、そんなつもりはなくても自然と比べちゃうんですよね。

比べるとやっぱり、予算の差に起因するスケールの違いとか、世界観の作り込みの甘さとかが、どうしても見えてきちゃうのです。

 

だから本作では、中庭でランチのシーンとか、トリップするダンスとか、団地の住人たちが感情を共有して悶えるシーンとかは、入れない方が良かったんじゃないかなあ…と思うのです。

 

②設定の盛り過ぎに注意!

死恐怖症(タナトフォビア)に悩む大学生・史織(萩原みのり)は、元カレの啓太(倉悠貴)、その彼女で友人の真帆(山谷花純)と共に、ホラー映画のロケハンにかつて心霊事件が起きたと噂の団地に出かけます。しかし廃墟のはずの団地には多くの住民が住んでいて、怪現象が次々と起こります…。

 

死を過剰に恐れるタナトフォビアを主人公の属性にすることで、主人公が物語のテーマに密接に絡んでいく。

この作り方も「分かる!」のです。

心霊が存在するというのは、怖いけどその一方で、「死んで無になる」ことを恐れる心情からは「救いである」ということになりますからね。物語に両面性が出て、深みになってきます。

 

タナトフォビアの原因?あるいは結果?として、終末期の母親の延命をするかどうか…という選択が背景に設定されていて、これも主人公の苦悩にリアリティを与えています。

選択できなくて悩む主人公が、最後に選択する…という展開になるので、主人公の成長も感じることができます。(その是非は別として)

 

ただ、死恐怖症というのはかなり行動に制限をかけちゃう設定ではあります。何よりも死を恐れるなら、あんな見るからに怪しい管理人のいる団地に率先して近づいていくのは不自然です。

友達2人が普通に引いて帰ろうとする一方で、史織が強引に引っ張っていく役回りなんだけど、死恐怖症という設定からは変です。

 

たぶんそれを解消するために、史織は行動の読めないエキセントリックな人物に設定されています。友達と付き合ってる元カレと関係を続けて平気…という辺りですね。

そういう人物設定なので、史織がわざわざ危険な方向に突っ走っていくのも、友達を巻き込んでいくのも、まあ納得はできます。

ただ、死を恐れる=未来を恐れる守りの性格と、自分の欲望に忠実に自分勝手に生きる=今を生きる刹那的な性格は、どうにも馴染みが悪くて、主人公が分裂して見えてしまいます。

場面場面では、筋は通るんですけどね。全体を通して見ると、主人公の人となりが像を結ばない。最後の方になるほど、主人公が何を考えてるのか分からなくなるのは、どうにも疲労感をもたらします。

③曖昧さの多用に注意!

団地で起こる怪現象は、それが心霊現象なのか、あるいは怪しい住民たちが意図的に起こしているヤラセの現象なのか、曖昧に見えるように描かれています。

これもね。ホラー映画あるあるで、なぜ誰もヤラセの可能性を一切考えないんだ!って不自然がありますからね。それを上手いこと回避してる。

 

どっちなんだろう?と考えさせることで、観客を受け身にせず、映画への参加を促すという効果もあります。

霊の怖さなのか、人の怖さなのか。虚実をあやふやにして気をもたせ、考察を誘った上で虚実の逆転が上手く決まると、気持ちのいいカタルシスがもたらされる…はずです。

 

ただ、本作に関しては、その両面性は割とあっさり答えが出されてしまいます。はっきりと「カメラだけに映る幽霊」を見せることで、心霊現象が実在することはサラリと確定。

これはちょっと拍子抜けだし、もったいなかったような気がします。

終盤の主題になっていく主人公の死恐怖症にしても、死後の世界の実在が確信できたなら、その深刻度は極端に薄れてしまうわけで。

終盤で主人公の心情についていきにくいのも、この作劇のせいが大きいのではないかな。

 

「人か霊か」の問題があっさり片付けられる一方で、最初から最後までずっと曖昧なままにされる部分もあります。

もう一つ外側の、舞台に関する設定。

団地で起こる心霊現象が本物かヤラセか…の前に、廃墟のはずの団地に人が住んでるのは、不法に住み着いた人たちなのか、廃墟というのが間違いで正当な住民なのか、それとも住民自体が霊なのか。

要するに、この映画の中で起こってることはそもそもいったい何なのか…という部分。ここは、なぜか最初から最後まではっきりしないんですね。

なんかね、逆の方がいい気がするんですが。大枠はかっちりとリアリティのある構築をしておいて、その中で起こる出来事が曖昧である方が…と。

 

更にその前の、Googleマップみたいなので見たら死体の山が見えた…とか。

教授のところの意味ありげな感じとか。

全体が妄想?みたいなフリもあるのでね。そもそもこんな街中の団地で、なぜ逃げない?とかなぜ誰も気づかない?とかの部分についても、どこまでマトモに受け取っていいものやら…とも感じてしまう。

そうなるとやっぱり、考察もあんまり乗れないのです。

 

「ミッドサマー」にしても、最後に向かうに連れて様々な謎が一点に収束していく気持ちよさがあります。その上で、考察の余地を残す…というのが満足度の高いバランスになるのかなと思います。

本作では、最後に向かうに連れていろんなことが曖昧になり、よく分からなくなっていくんですよね。

様々な解釈に開かれた余韻を重視したいのだと思うのですが、「上手く畳めてない」の方が先に立ってしまった印象です。

 

 

 

萩原みのりさんの前作。いろんな映画で印象的な役を演じているんですが、主演作についてはこのところあまり恵まれていないような…

 

大ヒットした元ネタ。白い服、飛び降り自殺、優しそうな女性のリーダーなどもですね…分かるけどね。