Retfaerdighedens ryttere(2020年 デンマーク・スウェーデン・フィンランド)
監督/脚本:アナス・トーマス・イェンセン
製作:シーセ・グラウム・ヨルゲンセン、シーゼル・ヒブシュマン
撮影:キャスパー・タクセン
編集:ニコライ・モンベウ、アナス・エスビャウ・クレステンスン
音楽:イエッペ・コース
出演:マッツ・ミケルセン、ニコライ・リー・カース、アンドレア・ハイク・ガデベルグ、ラーシュ・ブリグマン、ニコラス・ブロ、グスタフ・リン、ローラン・モラー、アルバト・ルズベク・リンハート
①見かけと違う!意外な面白さ
アフガニスタンに駐留する兵士のマークス(マッツ・ミケルセン)は、妻が列車事故に巻き込まれて亡くなったとの知らせを受けて、故郷デンマークに帰ります。一人娘のマチルデ(アンドレア・ハイク・ガデベルク)はショックを受けていますが、マークスはセラピストを受け入れようとしません。一方、列車に乗り合わせていた数学者のオットー(ニコライ・リー・カース)は、起こったのは事故ではなく、犯罪組織ライダーズ・オブ・ジャスティスが証人を消すために行った犯罪だと確信します。それを知ったマークスは、復讐に乗り出します…。
「アナザーラウンド」のマッツ・ミケルセン主演のデンマーク映画。
タイトルやキービジュアル、上記のあらすじからも、想像するのはいわゆる「復讐テーマのバイオレンスアクション」だと思います。
「ジョン・ウィック」シリーズとか、「デス・ウィッシュ」とか。
一見おとなしそうな地味な男が実は戦闘のスペシャリストで、怒りに燃えてギャングを殺戮していく話。
でもね。実は本作は、そういう映画じゃないんですよ!
いや、その通りのことは起こるんですけどね。
マークスはアフガン帰りのベテラン兵士で戦闘力は極めて高く、大勢のギャングをヘッドショットでスパスパ倒していく。
数学的な分析力や、高度なハッカー技術によって彼をサポートする仲間たちもいて。
守るべき愛する娘もいて。
復讐の対象となるのは、凶悪なギャング軍団ライダーズ・オブ・ジャスティス。
そういうプロットは、確かに存在するのだけど。
それでいてなお、本作は「そういう映画ではない」のです。驚くべきことに。
上記のようなジャンル映画的プロットをなぞりながら、本作はどんどん予想のつかない方向へと展開していきます。
何よりもまず、この意外性がめっぽう面白い。
復讐ものバイオレンスアクションのプロットを借用しながら、深く傷ついた者の心の回復というシリアスなテーマを、欠けたところのあるボンクラ男たちのユーモラスな交流を通して、テンポ良く軽快に描いていく。
寓話であり、アクションであり、コメディであり、家族ものであり、男の友情ものであり、ファンタジーでもある。
本当にユニークな映画です。よくあるアクション映画の見かけで、スルーしちゃうのはもったいないですよ!
②暴力という自己セラピー
本作のテーマは、突然の理不尽な出来事によってショックを受け、深く傷ついてしまった心をいかに癒し、いかに回復していくか…ということ。
マークスとマチルデの場合は、突然の事故による妻の(母の)死ですね。
アクション映画では同じことが起こっても、あくまでもプロットのきっかけに過ぎない場合が多いのだけど。
本作では、プロットのすべてはマークスの「妻の死を受け入れられない心理」から起こってくることになります。
マチルデは冷静にセラピーを受けることを望みますが、マークスは受け入れない。
落ち着いてるように振る舞ってるけど、実のところマークスの方が娘よりずっと動転していて、どうしたらいいか分からなくなっています。
感情が昂っていて、娘の彼氏にもいきなりパンチを見舞っちゃう。
で、この抑制の出来なさが、復讐の対象(と思われる)に会った時にも暴発してしまいます。取り返しのつかない形で。
マチルデの彼氏のシリウスが、「人は誰も職業に応じてそれぞれのショックの癒し方をする」ということを言います。
兵士であるマークスは、暴力によって傷を癒そうとする。
マークスが「パン屋は?」と聞き返してシリウスは言いやめてしまうのですが、実際、この映画の中でマークスがやってるのは「暴力による自己セラピー」に他ならないですね。
復讐というのは、死んだ妻のためでも、社会正義のためでもない。自分のために、自分を慰めるための行動に過ぎない。
こう解釈すると、いわゆるアクション映画の構図がくるっと逆転するんですよね。
タフで容赦のない復讐ヒーローは、そうでもしないと自分を慰めることができない、誰よりも弱い人物である…ということになるわけだから。
タフでコワモテでめっぽう強いマークスが、自分の悲しみを自分一人で処理できず、辛い現実に直面することもできず、子供のようにかんしゃくを起こしている、いちばん情けない男に変換されていく。
そして、それって結構真実をついているよなあ…と感じられていくわけです。上手い脚本ですね。
③欠落を共通項とする仲間たち
そして、そんなマークスには仲間がいる。
役に立たない未来予測アルゴリズムを作って、大学をクビになるオットー。
その助手のレナート。
その友人で、コンピュータには強いけど対人関係はまるでダメなエメンタール。
3人の冴えないおっさんたちですが、3人とも大きな心の傷を抱えていて、欠落を埋められないでいる。その点で、マークスと同じであるわけです。
彼らはただ復讐の共犯者としての仲間というだけでなく、同じような欠落を抱えた似たもの同士なんですね。
このおっさんたちが、みんな面白い。そして魅力的。
オットーは事故現場に居合わせて、マークスの妻に席を譲ったものだから、強い罪悪感を感じてしまってる。
更に、彼には過去に事故で家族を失ったという傷もあって。
それが、本来関係ないはずのオットーが、マークスの復讐にどんどん加担して戻れなくなっていく、原動力になってるんですね。
レナートは常に場違いな発言や空気を読まない言動で場を凍らせる、発達障害を感じさせる人物です。
過去に虐待を受けていたという傷を抱えるレナートは、それゆえの優しさで人に接していく。ライダーズ・オブ・ジャスティスに虐待されていたボダシュカを救うのも彼です。
また、多くのセラピーを受けてきた彼は、成り行きでマチルデにとっての優れたセラピストになっていきます。
それらの「特技」はみんなレナートの心の傷に起因しているわけだから、悲しいんですけどね。
デブのエメンタールは凄腕ハッカーなんだけど、人には心を開かない。常に相手の目を見ずに話そうとする。
3人の中ではエメンタールがいちばん社会性がなくて、心を病んでる感じですね。ちょっとしたバランスの崩れで、ヤバいことをしでかしそうな危うさがある。
でも、そんなエメンタールを、オットーとレナートが(文句言いつつも)支えてる。
そしてエメンタールも、何とかしたいと願って足掻いてる。どうにも、上手くいかないのだけど。
そんな「欠けた男たち」がマークスの家に集まって、いつしか共同生活が始まっていきます。
最初のうちは、タフガイのマークスがリーダーシップをとって、オタク軍団を従えてるという「アクション映画的な」構図なんだけど、それがだんだん変化していく。
むしろオットーたちの存在が、マークスとマチルデの親子を支え、悲しみを癒す役割を果たしていく。疑似家族になっていきます。
途中からシリウスやボダシュカも加わって、食卓がどんどん賑やかになっていくのが楽しいですね。
その裏では、「アクション映画的な」血みどろの復讐もまだ進行中なんだけど。そのミスマッチが、徐々に大きくなっていきます。
④不幸に原因を求める心理
理不尽な不幸に見舞われた時、人はつい、原因を探してしまうものだと思います。
何の原因も理由もなく、単なる偶然で、そんな酷いことが起きるなんて、どうしても受け入れられない。
だから、人は原因を求める。そして、原因らしきものが見当たると、思わずそこに飛びついてしまう。
だから、席を譲ったという偶然の罪悪感を受け入れたくないオットーも、怒りと憤りの持って行き場がないマークスも、「事故ではなく、犯人がいた」という可能性を、いともたやすく信じ込んでしまう。
相手が運命とか神様ならどうしようもないけど、人間であればどうにかできる…ような気がしますからね。
人は大きな不幸に直面した時、その不幸の原因を作ったワルモノを求めてしまう。
宙ぶらりんがいちばんしんどい。怒りや憎しみを向けるべきワルモノがいると、気持ちが落ち着くんですね。
陰謀論にハマるとか、反ワクチンとか、この心理なんじゃないでしょうか。
マチルデも一緒でしたね。事故の前に起こったことを付箋に書いて、部屋の壁に貼っていく。
「自転車が盗まれた」「車が故障した」「パパから電話があった」など。
オットーは「原因を探ることに意味はない」「偶然に過ぎない」と言います。客観的には、正しく判断することができるんですね。自分も同じ誤謬にどっぷりハマっているのに。
⑤弱者への共感と、「いじめっ子的存在」への明確な否定
そして終盤。ここからネタバレ!ですが。
オットーが犯人と思った男はまったくの無関係。ライダーズ・オブ・ジャスティスそのものが全然無関係で、列車に起こったのは本当にただの事故だった。
これまでの展開で、マークスがぶち殺してきた男たちは、マークスの妻の死に何の関係もなかった!
これ、すごい展開ですね。初めて見た。
復讐ものアクション映画である、という見せかけが、ミスリードになってるんですね。映画であればこそあり得ない、というのがミソですね。
でも、考えてみれば、警察が調査した上で、初めから事故だと言ってるわけで。映画でない現実世界では、警察が分からない真相を素人だけが見抜いちゃう方がよっぽどあり得ない。
それでも、犯人がいて欲しいという願望で、信じたい方を信じちゃう。
これはそういうジャンルの映画だから…という観客の思い込みと、犯人はいるはずだ、いて欲しい、いてくれ…という劇中人物の願望が、本作のプロットとどんでん返しを成立させている。
で、復讐アクションの爽快な構図は否定されちゃう。マークスは関係ない人たちを虐殺してたことになるわけで、ここから反省と後悔の暗いモードになっちゃいそう…なんですけどね。
本作は、そこもまた予想を超えてきます。
反省も後悔もそこそこに、ライダーズ・オブ・ジャスティスが殺しに来るので、安心して正当防衛できるクライマックスへ。
欠落を抱えた仲間たちの擬似家族は更に結束を強めて、最後にはもはやファンタジーのようなハッピーエンドへなだれ込んでいきます。
終わってみれば、ライダーズ・オブ・ジャスティスはただの殺され役というか。セラピーの材料にされちゃったようで、これでいいのか?という気もしないではないですが。
でもまあ、悪い奴らだしね! 殺人もやってたようだし、結果的にはギャングを壊滅したってことで、まあいいか…となります。
なんというか、ここまでの独特の語り口によって、そういう大らかさも許せちゃうようになってるんですね。
そこの感じ方は、人によるかもしれないけど。
ただちょっと思ったのは、本作では、徒党を組んで悪事にふける、劇中のライダーズ・オブ・ジャスティス的な生き方に対しては、明確に否定している。
マークスが犯人と思われた男を殺したところで、エメンタールが(関係ないはずなのに)「こいつらが俺をずっといじめてきた…」と激昂して死体を蹴るシーンがありました。
心の傷に苦しみながら、なんとか足掻いて生きている人々に暖かい眼差しを注ぎつつ、そんな人々を「いじめる」奴らに関しては、容赦無くはっきり否定する。
そんな悪役に「ライダーズ・オブ・ジャスティス」なんていう、一見カッコいい、メインストリームのような名前がついているのも、示唆的であるように思いました。
最近のマッツ・ミケルセン出演作2作。