House(1977 日本)
監督:大林宣彦
脚本:桂千穂
原案:大林千茱萸
製作:大林宣彦、山田順彦
撮影:阪本善尚
編集:小川信夫
音楽:小林亜星、ミッキー吉野&ゴダイゴ
出演:池上季実子、大場久美子、松原愛、神保美喜、田中エリ子、佐藤美恵子、宮子昌代、尾崎紀世彦、鰐淵晴子、南田洋子
①ループのようにつながる最終作と第1作
遺作となった「海辺の映画館」がコロナ延期を超えてようやく上映中の大林宣彦監督。
その長編デビュー作、「HOUSE ハウス」です。
「海辺の映画館」、大林宣彦監督81歳の遺作なんだけど、そこから受ける印象で、大林作品の中でいちばん近いのは、1977年に39歳で撮った第1作「HOUSE」だったりします。
最後と最初が、ループみたいに繋がってる。
リアリティよりも、心情を反映することを優先した映像。
時に観客を置いてけぼりにする、ハイスピードなテンポ。
圧倒的に濃密な情報量。
美少女と、センチメンタリズムへのこだわり。
そして、戦争を否定するという基本精神。
それらは大林作品の特徴としてずっと一貫しているところだけれど、やはり作品ごとに濃度の差はあるんですよね。
ここ数年の作品に関しては、大林監督も常に「最後かもしれない」という意識があるのでしょう。本来の「らしさ」を全開にして、その結果「HOUSE」に接近する形になっています。
そもそも、テレビCMで活躍していた大林監督が商業映画デビューするにあたって、提出したシナリオは檀一雄原作の「花筐」だったと言います。
前作「花筐/HANAGATAMI」(2017)として30年越しに結実することになる企画ですね。
「花筐」が却下されて、代わりに提出したのが「HOUSE」でした。
「HOUSE」で鰐淵晴子が演じた「オシャレの父の再婚相手の女」の名前は江馬涼子で、「花筐」で常盤貴子が演じた役名が江馬圭子。これは「同一人物です」と大林監督は語っています。
「HOUSE」の脚本は、「僕が檀一雄さんの原作から起こした『花筐』の同じ脚本をそのまま、『怖くないホラー』と皮肉られた『HOUSE』に置き換えて映画化した」のだそうです。
だから、もう最初から大林監督の中では、作りたいものが一貫してる。
傍目には振れ幅がすごいし、文芸作品とホラー映画の脚本が同じってどういうこと?と思うんですが、大林監督の中ではそれは違和感はないんですね、きっと。
だから、ジャンルが何だからそれらしく撮らねばならない…という発想は、そもそも大林監督にはない。
根本姿勢からして、自由。その自由さが、観ていて本当にビックリさせられるし、憧れのような感覚を感じさせられる部分なのだと思います。
②自由なフィルムの使い方
近作でも「HOUSE」でも、否応なく目につく大林監督ならではの表現が、合成を使って非現実的に誇張した風景。
セット撮影だけでなく、屋外のロケ撮影であっても、背景にわざわざまったく違う映像を合成して(真っ赤に燃える夕焼けとか、巨大な満月とか、降るような星空とか、そそり立つ摩天楼とか)、ある種の「心象風景」を映画の背景に作り上げる。
大林監督の作品の中では多用される手法ですが、やはり近作とこの処女作でそれは特に誇張されていますね。
こんな風景の撮り方をする監督って、大林監督以外に思いつかない。
近年のハリウッドとか、あらゆるシーンがグリーンバックで撮影され、CGで作られた画像が合成されることが当たり前になっていますが、そういうのともまた違う。
ハリウッドのCG合成は、あくまでも実写と見紛うリアリティを確保できるからこそ…の表現ですよね。普通だったら、実写で撮し取れるものと遜色ない風景を作り出せる時に初めて、合成という手段を選んでいく。
それに対して大林監督の場合は、リアリティというものをあまり気にかけていないようです。
特撮の再現度がそれほど高くなく、実写の風景と合成することでバランスを崩すことになってしまっても、あえてそちらを選んでいく。
パースが合ってなくても、そんな風景が物理的にあり得なくても、それよりも監督の頭の中にある、撮りたい風景を再現することの方を優先していく。
一種異様な迫力ではあるんだけど、映画が本来追求すべき「もっともらしさ」という点では、自らそれをぶっ壊している。やはり、従来の映画文法とはまったく違う考え方なんですよね。
これ、いったいなんでなんだろう?…と思っていたんだけど、「海辺の映画館」を観ると、少年時代の大林宣彦が、廃棄された映画のフィルムを手に入れてそれを繋いで遊んだり、画像が溶けて落ちてしまった空白のフィルムに1コマずつ絵を描いて、アニメ映画を作った…というエピソードが出てきました。
ルーツは、たぶんそこなんですね。大林監督にとって映画というのは、フィルムに物理的に手を加えて、そこに上から絵を描いたり、描き変えたり、要素を塗り重ねたりして、それを切ったり貼ったりして作っていくものだったわけです。
普通は、フィルムというのはカメラの中に収められていて、ただありのままの映像をそこに写し取る媒体であるのだけれど…。
フィルムそれ自体をおもちゃのようにして、自由に作り変えて遊んでしまう。その幼少時の独特の感覚が、生涯を通じてのオリジナリティにつながったのではないでしょうか。
③ヒロインの記号性と、背景にある戦争
「海辺の映画館」の3人のヒロインには尾道三部作(「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」)のそれぞれのヒロインの名前がつけられています。役柄と名前は関係なく、あくまでも記号的な名付けです。
「HOUSE」の7人のヒロインたちには、名前がありません。それぞれ「オシャレ」「ファンタ」「クンフー」「ガリ」「スウィート」「メロディ」「マック」というあだ名で呼ばれる、これも記号的な存在と言えます。
おしゃれ好きだからオシャレ。夢見がちだからファンタ。喧嘩に強いからクンフー…など、映画の中での役柄を伝えることだけに特化したキャラクター作り。
「人間を描く」というのも、それまでの映画の評価軸とされていたことだと思いますが、そこからもあえて逸脱してると言えます。
そんな7人の少女が「家」に食われていくわけですが、その背景には「戦争」がある。そこも、実は「海辺の映画館」と共通しているんですね。
「家」の主である「おば様」は、戦争に行った恋人の帰りを待ちわびて、その果てに妖怪と化してしまった人物です。そんな彼女が、なおも恋人を待ち続けるために、命をつなぐべく少女たちを食べてしまう。
「海辺の映画館」の3人のヒロインは、いろんな役柄に移り変わりつつ、その都度戦争の犠牲になってしまいます。だから、これも広い意味で「同じ話」と言えてしまう。
もちろん「HOUSE」はホラー映画であり、アイドル映画であり、当時の若い世代に向けた破天荒なエンタメ映画であるわけですが、その根っこには監督自身の戦争体験があり、「戦争は嫌なものだ」という確固としたメッセージがあるから、骨太なんですね。大方のアイドル映画のように時代とともに消えてしまわずに、いまだにカルト映画として残っている理由の一つだと思います。
そして、「海辺の映画館」では主人公の少女が「戦争を知らない、戦争ってなに? 戦争を教えて」と繰り返していたわけですが、「HOUSE」では7人の女子高生たちは戦争に何の興味も実感もなくて、移動の道中、おば様の過去がモノクロの叙情的な映像で描かれていく間も、ずーっとペチャクチャ関係ないことを話している。
そういう、戦争を知らない世代に向けているということ。なおかつ、戦争を知らない世代は戦争に興味なんかないのだということをちゃんとわかっていて、わかった上で届く表現を模索していること。
そういう点では、少女たちに共感し感情移入しながらも、同時に少女たちの浅はかさ、幼さ、考えの足りなさもシビアに描いていく。そこも、大林監督の独自のタッチだと思います。
「HOUSE」は、キャピキャピと賑やかでやかましくて、あまり人の話を聞いていない、傍若無人に振る舞うとも言える女子高生たちが、あえなく次々食われていって、全滅してしまう。そういう、言ってしまえば身も蓋もないお話なわけですが。
記号の名前で呼ばれる、キャラクターとしての女の子たちなので、そこに死の悲壮感はない。
若い少女たち特有の、賑やかでうるさくって、そして浅はかな感じ。
浅はかだから食べられちゃうし、それも仕方ない感じだったりするし、それでいてキラキラと輝く美しさもあって。刹那的な美しさと、はかないセンチメンタリズムも確かにそこにあるんですよね。
大林監督の映画には甘いセンチメンタリズムもあって、作品によってはそれが強く前に出ていたりもするんだけど、基本的にはとてもクールでドライな、突き放した視点で描く人なんじゃないかと思います。そこが、それまでの日本映画と一線を画していた部分でしょうね。
④突飛なアイデアと、規格外な部分
本作の面白さはなんといってもその豊富なアイデアにありますね。ホラー映画の面白さは「殺され方」にあるわけで、そのアイデアの一つ一つが非常に斬新。
時計に食われるとか、電球に食われるとか、ピアノに食われるとか。
家自体が消化液をたたえた胃袋になって、その中で泳ぐ少女が溶かされていく…とか。
次々と繰り出される斬新なアイデアで、7人の美少女が一人また一人と殺されていく。そのカタルシス。
ただ、本作においては、殺され方が突飛なだけに、それを再現する映像技術が満足に追いついていない…というのもかなり如実です。
ぶっちゃけて言ってしまうと、かなりチープなものにも見えてしまう。
ここも、リアルを重視するなら、映像的に無理のない形で、あまりにも作り物っぽくならない程度の表現に調整していくのだろうと思いますが。
大林監督はそんなの気にしない。突飛なアイデアをそのまんま映像化することを、あくまでも優先していきます。
さらに、本作においては突飛なのはホラーシーンだけではない。
特に超常現象が起こってるとかではない、普通の女子高生の日常シーンや、彼女たちが旅に出るシーンなどでも、ぶっ飛んだアイデアがこれでもかとぶち込んであります。
急にミュージカル調になって、ゴダイゴの本人たちが登場するシーンとか。
尾崎紀世彦演じる、コメディリリーフ?の先生がドタバタ騒ぎを演じるパロディだらけのシーンとか。
ホラーシーンの大騒ぎの合間に、さらにそういうシーンが挿入されるから、観ていて心の休まる暇がない。バランス的には、そこは普通で良かろう…とか思うんですけどね。
いったいこれは何だろう?と、理解が困難になってしまうシーンも多々あるんですよね。例えば、冒頭でも紹介した鰐淵晴子演じる女性。なぜか出てくるたびに紗がかかっていて、風が吹いてマフラーがなびいてるんですよね。
最後の方で、オシャレと向かい合って座ってるシーンでも、なぜか片方だけ風が吹いてる。室内だろうが、何だろうが。
ギャグなんだろうか?とも思うんだけど真面目なムードだったりもするし、すんなりとは消化しきれない。観ていて、謎が残るんですね。頭の中に。
ただ過剰なだけじゃない、そういう理屈では分析できない規格外な部分が、やはり本作を一度観たら忘れられないものにしてるんですよね。
⑤アニメに継承された大林タッチ
本作のタッチは、先行する映画作品よりもむしろ漫画、コミックに近いものなんではないかと思えます。
実写では不可能に思える突飛なホラーシーンのアイデア…って、結局コミックの得意分野ですよね。
風景をリアリズムでなく、その時の心情を反映させて描く…というのも、コミックではおなじみの表現です。(「ジョジョ」のゴゴゴ……ってなるのとか)
そして、セーラー服の女子高生に象徴される、ロリコン的なヒロインの描き方。これは、80年代の漫画やアニメでメインストリームとなっていくものですね。
「HOUSE」で示された大林監督流の映画の作り方は、それまでの日本映画のロジックにはないもので、旧来の作り手にショックを与えた…のは事実だと思うんですが、でもどっちかというと実写映画の世界では、冷ややかに見下す視点の方が多かったんじゃないかという気がします。
だから、大林宣彦監督は日本映画界の変革者…ではない。出現した時から彼は異端児で、現在に至るまで異端児のまま。
大林監督の表現的な手法が継承されたのは、むしろアニメの世界ではないだろうか…ということを感じます。
「HOUSE」的な表現の数々……女子高生の主人公、カンフーで戦うヒロイン、役割ごとに当てはめられたキャラクター、喧騒に満ちた学園生活、早口で饒舌なセリフまわし、ハイテンポなリズム、パロディの頻出、音楽と一体化した演出、雰囲気で不穏さや恐怖感を演出する風景描写、ホラー映画からの引用、誇張された表現……といったものは、80年代以降のアニメでポピュラーになっていったものじゃないかと思います。
だからやっぱり、80年代以降に隆盛を極めて、むしろ日本映画の本流となっていったアニメの世界の方が、新しい表現に敏感だったとも言えるし。
そもそもアニメの方によく馴染む表現を、実写で孤高にやり続けたのが大林監督だった…という言い方もできるわけですね。
考えれば考えるほど、他にない映画。ワン&オンリーの映画と言えるんじゃないかと思います。
「HOUSE」のブルーレイは北米のクライテリオン版がオススメ。画質も良好、日本語もバッチリで、短編「EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ」も収録されています。