Angel Heart(1987 アメリカ)

監督/脚本:アラン・パーカー

原作」ウィリアム・ヒョーツバーグ

製作:アラン・マーシャル、エリオット・カストナー

製作総指揮:マリオ・カサール、アンドリュー・ヴァイナ

撮影:マイケル・セレシン

編集:ジェリー・ハンブリング

音楽:トレヴァー・ジョーンズ

出演:ミッキー・ローク、ロバート・デ・ニーロ、シャーロット・ランプリング、リサ・ボネット、ストッカー・フォンテリュー、マイケル・ヒギンズ

 

①ジャンルを揺さぶる映画の先駆け

これは大好きな映画なんですよね。高校生の頃に観て、かなりわけがわからないままで放り出されたんだけど、それでも何か「非常にカッコいいものを観た」という気分になって興奮したのを覚えています。

ジャンルがわからないんですよね。当時の宣伝とかでも、オカルト映画、ホラー映画のつもりで観ていなかった。「ブラック・レイン」とかの刑事ものサスペンス映画を観るつもりで観ていたら…アレ…ですからね。

友達と観に行ったんだけど、友達がオチをわかっていなくて、「どういうことや!」と怒っていたのを思い出します。

「いやだから悪魔だったんだよ!」とか言っても、「そんなわけないやろ!」って怒ってましたよ。

当時はシリアス映画はシリアス映画、ホラー映画はホラー映画で、シリアス映画に超自然要素が途中から入ってくる…なんてのは「禁じ手」だったんですよね。

今は、途中でジャンルが変わっちゃう映画も珍しくないけど。これは、その走りだったんじゃないでしょうか。確かに衝撃的だったのです。

 

そして、あの「意味深なインサートカット」の数々。

「換気扇」とか、「エレベーター」とかで不吉な感じを醸し出すの、その後いろんな映画で見ましたよね。それも、実はこの映画が始まりなんじゃないかと思います。

黒と白、光と影のコントラストで描かれたそんな「心象風景」のカットも本当に印象深くて。

怖いし、それにカッコいいのです。「カッコいい恐怖映画」という方向性も、当時としてはとても斬新だった気がします。

 

②神に支配された世界の閉塞感

ストーリーは非常にシンプル。

1955年1月のニューヨークで、よれよれのコート着た私立探偵ハリー・エンゼル(ミッキー・ローク)が、謎の富豪ルイス・サイファー(ロバート・デ・ニーロ)の依頼を受けて、流行歌手ジョニーの行方を探し回る物語。

人探しの探偵もの。ハードボイルドの基本設定です。映画のプロットは、基本的にそれだけ。

よれっとした私立探偵といういかにもな役柄に、ミッキー・ロークが合ってるんですよね。一世一代の当り役…じゃないかな。

 

荒っぽい捜査を進めるうちに、ジョニーが南部ルイジアナの出身であり、現地の人間関係がブードゥー教の黒魔術に関わっていることがわかってきます。

徐々に見えてくる、不気味なブードゥーの生贄の儀式。

雪のニューヨークと、暑くて血の匂いが立ち込める南部のコントラスト。

 

映画はハリーの主観で描かれていくんだけど、ニューヨークもルイジアナも、どこか密室感があって、そこから逃れられない閉塞感が常に流れているんですよね。

探偵として、自由にあちこち動き回っているんだけど、でもたぶんどこにも逃げられない、最初から最後まで閉ざされた中にある。

 

そしてその閉塞感の正体は、宗教という価値観の中で生きねばならないことがもたらす閉塞感なのだと思います。

欧米の社会は、常にキリスト教の価値観がすべての生活の上位にあって、いわばそこに支配されている。それは、宗教に熱心でなくても、あえて異教に走る者であっても、同じことで。

圧倒的な支配者としての神が上位に君臨していて、人間はそこで神に許される範囲の中で生きていかなければならない、それが生きることの基本である、ということ。

そんな、神がもたらす閉塞感がこの映画の世界観を支配していて。物語の中ではキリスト教がブードゥー教に、神が悪魔に置き換えてあるんだけど、でもそこで描かれているのはつまりは「宗教そのものの不自由さ」なんではないかと思います。

 

劇中でサイファーが、「宗教は人間の愛よりも憎しみを募らせるのだ」と言っていますね。

本作の特徴は、悪魔教の恐ろしさを描きつつも、それに対抗する手段としての「善なる神の力」がほとんど描かれないことなんですよね。

「エクソシスト」など、多くのオカルト映画では描かれる、悪魔に対抗する力としての神の力がまったく描かれない。

上記の、サイファーのセリフもキリスト教会で話されてる。ルイス・サイファーは平気でキリスト教会に出入りしていて、「神の前では口を慎め」とか言ってます。

 

人を救ってくれる神の力はほぼ失われ、ただ堕落へと導く悪魔の力だけが生きている世界。

そんな絶望的な世界観が基本としてあるので、「エンゼル・ハート」の世界は恐ろしくて、そして魅力的なのだと思います。

③掴みにくいストーリーの整理(ネタバレ注意)

本作は基本的にネタバレ厳禁案件で、映画の終わりにすべての謎解きがされる仕掛けになっています。

なので、結局どういうことだったのか、若干わかりにくい。駆け足で説明がされてしまって、多くのことが想像に委ねられる…というものになってますね。

不可解さを残すところが本作の魅力でもあるんだけど。ここでは完全ネタバレということで、本作の謎を整理してみたいと思います。

ここからはまるっきりのネタバレなので注意。まだ本作を観たことのない人は、絶対にネタバレを知らずに観るべきだと思います。

 

(追加:ここ、後で見返して、ん?……と思ったので修正しております。それはそれで違ってるかも…なので、違うよ!と思われた方はコメントなどでご指摘頂ければ幸いです。)

 

1955年1月、ニューヨークの私立探偵ハリー・エンゼルは、弁護士ワインサップからルイス・サイファーという依頼人を紹介されます。

サイファーはジョニー・リーブリングという男を探すよう、ハリーに依頼します。ジョニーは戦前には有名だった流行歌手でした。

1943年に北アフリカ戦線に慰問で派遣され、そこで頭と顔に重傷を負って、記憶喪失になって帰還しまいした。

サイファーは、ジョニーの生死を確かめることをハリーに依頼します。

 

…なんだけど、実はルイス・サイファーの正体は悪魔であり、堕天使ルシファーです。

Louis CyphreはLucifer。メフィストフェレスがその本名でした。

 

ルイス・サイファーが悪魔であることはその名前のほか、長く伸びて尖った爪、悪魔の象徴である五芒星のマークの指輪などで示されています。

後にハリーと会った時には、サイファーは「ある宗教では卵は魂のシンボルだ」と言いながらゆで卵を食べます。彼が魂を食らう存在であることを、わかりやすく示すシーンですね。

 

ルイジアナ出身のジョニー・リーブリングは、若い頃からブードゥー教に精通していたものと思われます。彼の幼馴染の恋人イバンジェリン・プラウドフットブードゥー教の巫女であり、友人であるギター弾きのトゥーツも信者の一人でした。

黒魔術を極めたジョニーは悪魔を呼び出し、魂と引き換えに歌手としての成功を手に入れ、トゥーツやイバンジェリンとともにニューヨークに出ました。

この時にイバンジェリンとの間に娘エピファニーをもうけたものと思われます。

 

しかしその後、ジョニーは悪魔に魂を渡すことを恐れ、悪魔を出し抜くことを考えるようになります。

黒魔術にのめり込んでいたルイジアナの富豪の娘マーガレットが、ジョニーに協力しました。1943年、マーガレットは父親と共に、戦争で頭と傷に重傷を負った若い兵士を病院から連れ出し、ニューヨークへ連れて行きます。1943年の大晦日、ジョニーはタイムズスクエアのホテルで、黒魔術の儀式を行いました。ジョニーは若い兵士から心臓を取り出し、まだ動いているそれを食べました。

この儀式によってジョニーは若い兵士の顔と身分を手に入れ、ジョニーとしての記憶を失います。マーガレットはジョニーをタイムズスクエアに置き去りにしました。

その若い兵士の名前は、ハリー・エンゼルハリーこそが、探していたジョニーその人でした…。

 

ラスト、エピファニーの幼い息子が黄色い悪魔の目を光らせて、ハリーを殺人者として告発する。この息子は、ハリー/ジョニーの孫にあたるんですよね。

友人や恋人を次々に殺し、実の娘を強姦して殺し、孫に告発される生き地獄。サイファーがハリー/ジョニーに与えた罰は、相当に厳しいものでした。

この先に待つのは電気椅子だけど、ハリー/ジョニーの苦しみはそこでは終わらない。魂は不滅で、ハリー/ジョニーの魂はサイファーのものだから。

ハリー/ジョニーの魂は地獄に堕ちて、そこで永遠に苦しみ続けることになるのです…。

④ネタバレ説明しても読みきれない不可解さの魅力

ハリーはずっと、様々なビジョンを見ていました。それらはすべて、ジョニーだった頃の記憶の断片でした。

ハリーが繰り返し見るエレベーターと螺旋階段の映像は、兵士を殺したホテルの階上からの眺めでしょう。

真っ赤に染まった窓と換気扇も、兵士を殺した部屋の外見ですね。

エレベーターは、扉が開いてハリーに乗るよう促しています。エンドクレジットではそれに乗ったハリーが降下していく様が描かれるので、これは彼が地獄へ堕ちていく様を表してもいるのだと思われます。

 

サイファーの部屋へ行く途中、ハリーは壁の血を拭く老婦人に目を奪われます。

「彼女の夫が頭を撃って自殺した」とワインサップが説明しますが、ハリーはその光景に惹きつけられてしまいます。

ハリーがその光景に惹きつけられるのは、かつてジョニーが若い兵士を切り裂き、その肉体を乗っ取った場面を思い出させるから、ですね。これもサイファーが見せていたのかもしれないけれど。

 

また、ダイナーで食事をとる時、ハリーは頭の中でピアノの旋律を聴いています。

ハリーはピアノなんて弾いたことがないはずなのだけれど…。

このピアノの旋律は、ジョニーのヒット曲であることが後にわかります。

 

とはいえ、本作では謎解きは最後の数分でダーっと説明されるので、いろいろとわかりにくく、不可解な部分が残るのは否めません。

(…と、ここもいろいろ書いていたのだけど、ストーリーの解釈によっては謎でもないように思えたので、修正しています。あらためてちゃんと検討したら追記します!)

一つ思ったのは、ジョニーとしての記憶を消し、外見も中身も別人になってしまうなら、それはもうジョニー本人と言えるのか…?ということです。

それ、本人の主観的には完全に「自分」が消えてしまってるので、悪魔を出し抜いてもあんまり意味がないような気もします…。

 

…と、いろいろともやっとしたものは残るんだけど。でも、本作に関しては、その辺の不可解さ、謎が残る感じも含めて、魅力になってるとは思います。

説明に時間を割いていないので、理屈っぽさがないんですよね。突然衝撃的な事実を突きつけられ、多くの情報に理解がついていかなくなるハリーの心情に、観るものもシンクロさせられて、いっしょに混乱状態に落としこまれることになります。

身に覚えのまったくない殺人を、自分がやったということを後から突きつけられて、覚えがないのにそこから絶対に逃げられないという悪夢的な絶望。

説明も理屈も何もなく、ただ事実だけが突きつけられて、逃げられない。この不条理さな怖さが、本作の持ち味だと思います。

 

 

 

原作小説です。