The House That Jack Built(2018 デンマーク、フランス、ドイツ、スウェーデン)

監督/脚本:ラース・フォン・トリアー

製作:ルイーズ・ベスス

撮影:マヌエル・アルベルト・クラロ

編集:モリー・マレーネ・ステンズガード

出演:マット・ディロン、ブルーノ・ガンツ、ユマ・サーマン、シオバン・ファロン、ソフィー・グローベール、ライリー・キーオ、ジェレミー・デイビス

①相当な覚悟は必要

いや〜、変態映画でした!

ラース・フォン・トリアーなので変態映画であることはわかってたことではあるんだけど。

それにしても予想の斜め上を行く、変態映画でした。

 

主人公ジャックは12年間に渡って60人もの人々を殺したシリアルキラー。映画は彼が謎の語り手に、数ある殺人からランダムに抜き出した5つの事件を思い出して語っていく回想形式で描かれます。

1件目は彼の初めての殺人。だからなかなか殺しません。イラっとくる鬱陶しい女に絡まれて、イライラさせられるんだけどなかなか殺さない。最後にはキレて殺しちゃうんだけど、ここではまだ動機が理解できる衝動的な殺人です。

ジャックは彼が買っていたピザ屋の冷凍倉庫に死体を運び込み、事件を隠蔽することに成功します。

しかし、続く2件目からは、もう動機もクソもない。3件目、4件目と、ジャックの殺人は人数もやり口の残忍さもどんどんエスカレートし、はちゃめちゃなことになっていきます。

やがて冷凍倉庫は死体の山に…。

 

カンヌ映画祭で何人出て行った…なんて話が誇らしげに語られてますが、そりゃそうだ…って感じでした。僕の観た回でも、出て行って帰って来ない人はいました。わかってて来てる人だろうけど、それでも耐えられなかったんでしょうね。

 

観てて正直気持ち悪くなってくるんだけど、それはグロ描写とか血が流れること自体の気持ち悪さではなく、とことん悪趣味なものを見せられるしんどさ。

母親の目の前で子供がいたぶり殺される、とかね。更にその死体をオモチャにして遊ぶ。

倫理的にイカれているものを、延々と見せつけられる不快は確実にあります。そういうのに耐性のない人は要注意。…って、ほとんどの人は耐性なんてないし、耐性あったらサイコパスだと思うけど。

 

②それでいてエンタメ度が高いコントのような殺人

そして始末が悪いのは、その悪趣味が実にポップに、楽しげに演出されていること。実際、普通に面白く観れちゃうんですね。エンタメ度が極めて高い

笑ってしまうところもある。面白ければ面白いほど、「これを面白がっていていいのか?」という背徳感はつきまとうのですが。

 

「第1の事件」からして、ユマ・サーマン演じる「タイヤをパンクさせた女」の、絶妙なイライラ感。

何度もしつこくジャックを挑発して、もう殺されるか?と思わせてまだ殺されない、焦らし演出。

観ているうちに、さっさと殺せよ!って思っちゃうんですね。シリアルキラーの方に感情移入させちゃう。ここで一旦ジャックの側に観客を落とし込んでるから、後の方の殺人の「シャレにならなさ」の部分でも、観客はどこか共犯気分にされてしまう。この計算された意地の悪さ。

 

「第2の事件」では相手は特に特徴のない一人暮らしのおばさんなんだけど、殺した後のジャックの行動が面白すぎる。

潔癖症で、強迫神経症のジャック。死体を車に積んで、早く現場を立ち去らなくちゃいけないのに、絨毯の下に拭き残したかもしれない血痕が気になって仕方がない。

これを繰り返すうちに、パトカーのサイレンが近づいてくるんだけど、それでもまだ壁の絵の裏にあるかもしれない血痕を、確かめに行かなきゃ気が済まない…。

ここもう、コントですね。日本の芸人が言うところの天丼のギャグ

 

おまわりさんに怪しまれ、ほとんどヤケクソみたいに死体を引きずって暴走するジャック。そこに鳴り響くデヴィッド・ボウイ「フェイム」

「フェイム」といえば宮沢りえが風呂に入りながら歌ってたなあ…なんて関係ないことを思い出すくらい、躁病的な響き。

死体を隠す冷凍倉庫まで、道路にしっかり血の轍。もうこれまでかと思ったら急な大雨がすべてを洗い流し、このコントはオチがつくのでした。

③“アートとしての殺人”のアホらしさ

「第3の事件」では再三述べてる母子の惨殺。それまでは多少残っていた、主人公への好感も砕け散ります。

「第4の事件」ではライリー・キーオ演じる女の子と恋仲になったあげく、生きたまま乳房をえぐり取ります。

「第5の事件」では一発の銃弾で何人殺せるかの実験を敢行…。

 

やってることの鬼畜度はどんどん上がっていき、反面シリアスさは下がっていく。

ジャックが慣れていくと共に、止むに止まれず殺す切迫感は消えていき、殺人はゲーム、趣味のようなものになっていきます。

だからもう、共感なんて微塵もない。

 

殺人が趣味化していくと共に、言い訳のように出てくるのが殺人=アート論。殺すことをあたかもアートのように語ることで、モラルを逸脱することをまるで高尚なことのように錯覚させるレトリックが語られていきます。

この辺も、たぶん意図的にかるーく描かれていて。安易なアンモラルアート論に冷や水をぶっかけるような、シニカルな描写になっています。

 

ジャックは建築家を志していた男で、自分の地所である湖畔に自分で設計した家を建てようとしています。

ただ、それも途中まで建てては満足できずに壊してしまう繰り返し。いつまで経っても完成しない中途半端なものです。

要は、ジャックはアーティストとしては二流。創造への憧れはあるけれど、実際に最後まで創り上げることはできない、似非アーティストでしかありません。

 

そんな彼が唯一、なぜか最後まで完遂できたことが殺人だった…ということで、ジャックは殺人にのめり込んでいきます。

だからジャックにとっての殺人は、ただ自分が得意なことを、嬉しくてやり続けてるだけのこと。逆上がりができて嬉しい小学生が、ずーっと鉄棒やり続けてるようなものですね。

実際のところ、アートなんて関係ない。他人の命を材料のように扱う傲慢さのの言い訳に過ぎない。

 

で、この「実のところ楽しいから殺したいだけの似非アーティスト」への冷笑的な視線は、この映画自身への自虐的な批評にもなっている、というのが面白いところですね。

ラース・フォン・トリアーの映画自体が常に、アンモラルなアートと俗物的な見世物の境界をまたいでるようなシロモノだから。

アートだなんだとスノッブなことを言ったって、所詮は俗悪な見世物小屋だろう?というようなことを、自分の映画をネタにして突きつけている。そんな構造を作っていると思います。

ラース・フォン・トリアーの映画はこれまでも、多かれ少なかれそういう構造を持っていたと思うんですが、今回は特にそれが顕著でストレートですね。

 

立派な芸術と俗悪なニセ芸術があるのではなく。

お前らがありがたがってるアートの本質って、要するにコレだろ?と「ジャックが建てた家」を突きつける。

ジャックが無邪気に作り上げた、冷凍された死体で組み立てた家。その身もふたもないアホらしさの前では、高尚なアート論など形無しですね。

④驚きの倫理的なオチ

この映画のすごいところ、びっくりさせられるところは、これだけやりたい放題やっておいて、最後はものすごく倫理的なオチがつく、ということです。

何しろ、悪いことしまくったジャックは地獄に落ちる、というオチですからね。

比喩でなく、そのまんまに。ジャックが地獄に落ちるところを描く。

 

冒頭からジャックと対話しつつ、姿を見せない謎の語り手の正体は、ブルーノ・ガンツ演じるヴァージ。

これはダンテの「神曲」に登場する古代の詩人ヴェルギリスで、ダンテを地獄へ案内する人物です。

冷凍倉庫で警官に追い詰められたジャックはヴァージに導かれ、死体の家の床下に開いた穴から地下へ逃れ、そのままダンテをなぞった地獄めぐりへと誘われることになります。

ドラクロワの「ダンテの小舟」コスプレでそのまま再現するという念の入り方。

ドアに開けた穴から警官が発砲するシーンがあるので、現実世界のジャックはそこで死んだということなんでしょうね。

 

ダンテの「神曲」というのもインテリ御用達というか。スノッブなアートのテーマにされる筆頭のような存在ですが。

でもそれをまんまに映像化して、B級ホラーのごときキッチュな映像世界にしてしまってるのも、底意地の悪さを感じますね。

⑤幕切れが気持ち良いという奇跡

いやあ…なんだろう。

異常な映画なんだけど、面白いか面白くないかといえば確かに面白かったし、何度もびっくりさせられたし、大いに見応えはあったと思います。たぶんもう二度と観ることはないけど。

この内容で「面白い」というのは、しかし考えてみればとんでもない才能ですね。

 

地獄のような2時間半なのに、幕切れは恐ろしく気持ちがいいです。

地獄の最下層へと真っ逆さまに落ちていくジャック。

そこに元気に愉快に鳴り響くレイ・チャールズの「旅立てジャック」

「出て行けジャック、2度と帰ってくるな」の陽気なリフレイン。

なんて直接的な。この映画の最後の最後で、気持ちが高揚してしまうという驚き。

 

いやほんと。とことん、驚きに満ちた映画ではあったと思います。一回は観といてもいいんじゃないかな。一回は。