Todos lo saben(Everybody Knows 2018 スペイン、フランス、イタリア)

監督/脚本:アスガー・ファルハディ

製作:アレクサンドル・マレ=ギィ、アルバロ・ロンゴリア

撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ

編集:ハイデー・サフィヤリ

音楽:ハビエル・リモン

出演:ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム、リカルド・ダリン、エドゥアルド・フェルナンデス、バルバラ・レニー

①じわじわと滲み出る人間の負の側面

アルゼンチンで暮らすラウラは、妹の結婚式に出席するために、娘のイレーネ、息子ディエゴと共にスペインの田舎町にある実家に帰ってきます。結婚式の夜、イレーネが誘拐され、身代金を求めるメールがラウラだけでなく彼女の昔の恋人だったパコにも届きます。

そのことから、一見幸せそうに見えた家族の過去のしがらみが浮かび上がり、ある秘密が暴かれていくことになります…。

 

「別離」「セールスマン」でアカデミー外国語映画賞を2度受賞したアスガー・ファルハディ監督が、母国イランではなくスペインで撮ったサスペンス。珍しく、ペネロペ・クルスハビエル・バルデムというスターが夫婦共演しています。

 

と言っても僕は「別離」「セールスマン」も観てなくて、ファルハディ監督で観てるのは「彼女が消えた浜辺」だけなんですが。

スターが出てても、イランの若い俳優で撮られた「彼女が消えた浜辺」と印象は同じでしたね。

人の失踪という目をひく出来事を牽引力としてミステリ的に展開させつつも、主題はミステリ的な興味にはない。

それよりも、深刻な出来事が突発的に起こることで次々と連鎖反応的に露呈していく、人々の隠していた本音や、影にあって見えていなかった人間関係の影。

そういう人間の嫌な部分、ダークサイドをじわーっとあぶりだしていく、意地の悪い作りになっています。

 

ミステリとしても、意外な犯人や、そこに少しずつ迫っていく過程が描かれていて、スリリングです。ただ、あくまでも主題はそこにはないので、ミステリやサスペンスとしてのみ期待するとやや肩透かしに感じるかもしれません。

でも、その中で描かれていく人々の変化…あんなに仲よさそうに見えた人たちの、腹に隠しているものがどんどん見えてくる過程が、実に面白い。面白いというか…実に怖くて、興味深いです。

 

②ハッピーな前半が強調するコントラスト

前半は結婚式のハッピーな祝祭

陽気な国スペインらしい、大勢の招待客が集まって、歌ったり踊ったり。家族も、親戚も、招待された友人たちも、何のわだかまりもないように見えます。

でも、実は…ということになっていくわけですが。

 

この最初のハッピーなところにも、既に不吉は潜んでいます。

外国から、田舎町にやって来るラウラたちの車を見下ろす、近所の人たちの視線。それは決して温かなトーンではなく、よそ者を眺める視線です。

外部の男と結婚して他所に出て行った、ラウラや彼女の妹アナは「玉の輿に乗った」けれど、地元に残ったラウラの姉マリアナは「貧乏くじを引かされた」。そんなことを話していたりもします。

また、親しげに振る舞うラウラとパコを見下ろす視線。奔放に振る舞うイレーネを見つめる批判的な視線。それは保守的な田舎ならではのありがちなものに思えるけれど、後になって思い返してみると、別の意味合いを含んでいるんですね。

別の、怖い意味合い。

 

前半が結婚式なだけに、後半との落差が大きいんですよね。

誰もが笑顔で、思いやりにあふれていて、家族もそうでない者へも、等しく思いやりに満ちている…。

パコも、ラウラの家族の中に自由に出入りして、ほとんど家族同然のように扱われている…ように見える。

誘拐事件が起こっても、パコは献身的に協力してくれて、家族も彼に感謝しているように見えます。

しかし、じわじわと、そんなうわべがはぎ取られていくわけです。

③はぎ取られるうわべの友好関係

殺害を恐れて、警察に通報もできない。ただ向こうから連絡が来るのを待って、毎日を過ごしているしかない。

ものすごく焦っているけれど、何もすることがない。こういう状況になると、人はどんどん余計なことを考えてしまうんですね。いろんな疑いが、次々と浮上してきます。

 

最初のターゲットとなるのは、ラウラの夫のアレハンドロ。彼が実は現在無職であり、財産を持っていないこと。それなのに仕事と言って結婚式に来なかったこと。身代金の要求がパコにも来ていることから、実はアレハンドロとイレーネがグルなのではないか…という疑惑が持ち上がります。

 

この辺りもとても巧妙で。観ていると、本当にそうであるように思わされてしまうんですね。

アレハンドロがイレーネは「神が救ってくれる」などと言うのも、いかにも心配していないように見えてしまう。

でも、それは結局彼に金がなく無力であり、また敬虔なクリスチャンであるということの表れなんですね。過去に教会に寄付をして、それによって皆に金持ち(玉の輿)と思われていることとも、符合する。

普段の行動に照らせば彼の行動は特におかしなものではないし、周囲の知人たちはそのことを知っているはずなんだけど、追い詰められた状況で疑い始めると、それがどんどんエスカレートしてしまうんですね。

 

それから、悪意の矛先はパコに向かいます。

中盤辺りまではパコは善意の第三者で、ラウラの家族たちからも信頼されているように見えています。

ラウラの父アントニオが酒に酔って暴れ、町の人々に「使用人のくせに生意気だ」などと毒づいて恨みを買うシーンでも、パコがアントニオを介抱しています。

でも、博打によって土地を失い、かつての大地主の栄光を失ったアントニオの恨みは、実は誰よりもパコに向かっています。

パコは現在成功したワイナリーのオーナーですが、その葡萄畑は元はと言えばラウラのものでした。金を必要としたラウラが、友人であるパコに安い値段で土地を売ったのです。

そのことを、アントニオは「パコは娘から土地を騙し取った」と捉えています。

「使用人の息子が偉そうに。あそこはわしの土地なのに」と。

 

この辺りの、「腹の底でそんなふうに思ってたの?」「それ言っちゃうの?」っていう嫌な感じ

これも、ちょっとずつ、じわじわと押し寄せてくるようになってます。その語り口が上手い。

最初のうちは、家族たちはアントニオを諌めているんですね。そんなこと言うもんじゃないよ、誰もそんなふうには思っていないからね…と言ってます。

ラウラも、「お金が必要だから、私が話を持ちかけて納得して売った。パコは騙してなんかいない」という立場です。

 

でも、誘拐が長引いて皆が焦燥し、いよいよ身代金のアテがパコの農場しかない!となってくると、皆の態度が変わってきます。

今日のパコがあるのはラウラのおかげなんだから、パコはラウラのために金を出すすべき…出して当然…なんじゃないの?なんて本音が漏れてきます。

ラウラも、あの時好意で言い値で売ったのに…という恨みがましい態度に変わってきます。

パコにしたら、「それとこれとは…」と言いたくなる話ですけどね。でも、「娘の命がかかっている」という伝家の宝刀のような前提があるので、むべに突き放すこともできない。

ギスギスしながら、膠着状況になっていく。ここに来て、ラウラがいよいよ最大の秘密を持ち出すことになるんですね。

 

④本人だけが知らない秘密

ここから、本作最大のネタバレになります。未見の方はご注意ください。

「誰もがそれを知っている」の「それ」に当たる部分です。

 

最後の切り札として、ラウラがパコに明かした秘密。それは、イレーネの父親はパコであるということでした。

これによって、パコにとっての状況はガラッと変わってしまいます。

あくまでも、善意によって友人の子を救おうとする…自分の生活を損ねない範囲で…だったのが、すべてを失っても自分自身の子を助けるか、自分の生活を守って見殺しにするかの究極の選択になってしまうのです。

 

パコの妻であるベアは、誘拐は狂言で、パコから金を奪い取るための一族の陰謀だと主張します。

実際、そうとも見える様相になってきてますね。アントニオを始めとする一族の憎悪を目の当たりにしているわけで。

彼らは、パコが土地を持ってることを不当なことだと思ってる。一族が取り戻すことが当然だと思ってる節がある。それなら、すべてがパコを陥れるための罠だとしてもおかしくない…とも感じられます。

 

でも、そうとも言い切れないのが苦しいところで。

もしそうでなかったら…誘拐が本物で、金を払わねば殺すという脅迫が本物だったら、パコはむざむざ自分の娘を見殺しにすることになってしまいます。

救えたのに。金を惜しんだばっかりに、自分の子供を死なせてしまった。

そんなことになる可能性を考えてしまったら、そう簡単に割り切ることなんてできませんよね。

 

パコは本来、関係ない人だったはずなのに。いつのまにか、もっとも中心にいる当事者にされてしまってます。

ラウラは「娘のためなら何でもする」とばかりになりふり構わずパコに迫ってくる。アレハンドロは神に祈ってるだけ。その他の家族たちは、どうせできることは何にもないもんね…って感じで見てるだけ。

そして結局、「どうするかを決めるのはパコ」ということになっちゃうんですね。

 

みんな金を持ってない。その中で、パコだけが持ってる。その時点でみんな責任を放棄して、パコに押し付けてしまう。

そこにあるのは、あいつは恵まれてるんだから、責任負わせてもいいんだ、という身勝手な理屈。

結局のところは、持っていない者からの、持ってる者への妬み、そねみですね。

 

また、能力のない人間が「できないから」という理由で責任を放棄して、能力のある人間が「できるから」という理由ですべてを一人で負わされてしまう。…これもまた、あるあるですね。

ラウラの心理も、パコの心理も、周りの人々の心理も、みんな極めてリアル。非常にいやらしい、誰もが持っている人間性の負の部分という点でリアルです。

 

誘拐事件をきっかけに、ありとあらゆる人間の負の部分が露呈していくわけですが、これもし事件がなかったら、何も見えないままだった…ってことですよね。

ハッピーに満ちた結婚式が終わって、みんなそれぞれの家へ帰って行って。

その影に隠れている、秘密や憎悪、妬みやそねみに誰も気づかないままで。

表面上は親しげで何のわだかまりもないまま、ずっと平穏な暮らしが続いていく…。

 

これ、怖い

ラウラとパコの事情は特殊かもしれないけど、でもこういう人々がそれぞれに持っている「表裏」って、きっとどこにでもあることで。

もしかして、何の裏もないと思い込んでる僕たちの周りの人間関係も、何か非常事態が起きたら一瞬で崩壊する程度の、陰湿で危ういものなのかもしれない…。

まさしくホラーですね。怖いです。

⑤そして、誰もがそれを知っている

身代金の狙いは、イレーネの真の父親であるパコだった。ということは、犯人はその秘密を知っていた極めて近しい人物…家族の中の誰かということになってきます。

そこで、パコは誰が犯人かに迫ろうとするんだけど。でもここで、彼は身もふたもない事実に直面してしまうんですね。

それが、映画のタイトル。誰もがそれを知っている、ということ。

 

その事実はそもそも、ラウラとアレハンドロだけが知っていて、絶対に守り通そうとした秘密なわけです。

そして、当事者であるパコさえも知らなかった。たとえラウラの家族であっても、知るはずのない秘密なわけです。本当なら。

 

でも、現に犯人は知っている。

誰かが知っているということは、誰もが知っている可能性があるということ。

この小さな田舎のコミュニティにあっては、秘密なんてものは存在し得ない。秘密だと思っていた行動は、必ず誰かに見られていて、誰かに見られていたら、それは村中に共有されてしまうわけです。

それこそ知らないのは本人だけで、誰もがそれを知っている。

 

映画のはじめの方で、教会の鐘楼に登ったイレーネと村の青年フェリペが、壁に残るイニシャルを見て、パコとラウラが付き合っていたことをイレーネに教えるシーンがあります。

こんな若造でさえも、知ってるんですね。娘であるイレーネが知らないことを。

これが、田舎コミュニティというものの姿であるということ。余所に出て行ったものはいつまでも悪い噂を語られ続け、村にとどまる者でも、ダメな奴なら「貧乏くじ」とか呼ばれ、成功者なら妬まれ、憎悪の対象になる。

たぶんスペインに限らない。日本の田舎町でも、一緒なんでしょうね。

 

さて、家族の中にいるらしい犯人はいったい誰か。そして、パコは自身が破滅してでも身代金を払うのか。

…ということが終盤の焦点になっていきます。

そこの結末は書きませんが、事件はある解決に至り、人々はそれぞれの場所へ帰って行くことになります。ラウラは、たぶんもう二度とこの故郷には帰ってこないでしょうね。

 

そして、犯人に関しては…この村で、そんな秘密が隠し通せるわけがない。

これがまた、次の「誰もがそれを知っている」になっていくんでしょうね。苦い余韻に満ちた、魅力的なエンディングだったと思います。