E.T. The Extra-Terrestrial(1982 アメリカ)

監督:スティーヴン・スピルバーグ

脚本:メリッサ・マシスン

製作:スティーヴン・スピルバーグ、キャスリーン・ケネディ

音楽:ジョン・ウィリアムズ

撮影:アレン・ダヴィオー

編集:キャロル・リトルトン

出演:ディー・ウォレス、ヘンリー・トーマス、ピーター・コヨーテ、ロバート・マクノートン、ドリュー・バリモア

①個人的な昭和の思い出!について

平成最後の更新ですが、昭和の映画です。昭和代表!

アメリカでは1982年の6月に、日本では同年の12月に公開されていますね。1983年の正月映画。

当時は僕は小学生で、母親に連れてってもらって観ました。

観た後、母親が珍しく激しくハマっていたのを覚えています。

映画を冬休みに観たんだと思うんだけど、その直後がお正月で。当時は親戚の集まりがありました。

「E.T.」はアメリカでも日本でも大ヒットで、ニュースになってましたからね。みんな知ってたけど、今と違って、古い世代の人々はSF映画とか観ないから、馬鹿にしてるわけです。宇宙人の出てくる映画なんて幼稚だと決めつけてる、そんな時代。

あんな気持ち悪いのが出てくる映画なんて観たくないよ、ってね。

それに対して、母が必死で訴えていて。「最初は気持ち悪く見えるけど、映画を見たらいかにかわいく思えるか」と言うことを力説してるうちに、感極まって泣き出しちゃったのを覚えてます。酔っ払ってたんでしょうけどね。お正月だから。

 

個人的な記憶なんだけど、そこから思うのは、この映画の公開当時、SF映画はまだまだ子どもっぽいものだと思われていたんですよ。

子どもや、一部のマニアが観るものであって、「まともな大人」が観るものではない…というような偏見がまだまだあった。

それを変えたのが、「E.T.」という映画だったんですよね。

宇宙人を中心としていても、普遍的な、感動的なストーリーを語ることができることを証明した。普遍的どころじゃない、そこらのドラマを遥かに超える、心に迫るドラマを描き切ったわけだから。

今思えば母の反応が典型的だったと思うんだけど、それまで宇宙人なんて何の興味も持っていなかった人、なんだったら「気持ち悪い」くらいに思ってた人が、物語にどっぷり感情移入してしまって、E.T.の熱烈な味方になってしまう。

偏見からE.T.を守りたいと本気で思うようになってしまう。

 

これ、まさに映画のテーマそのままですよね。異質な存在を恐れずに、友達として受け入れること。

映画の中のエリオット少年の気持ちと、完全に同一化されちゃってる。SFに馴染みのない旧世代までもが。これってやっぱり、映画の力の勝利だと思うのです。

 

ブルーレイ版の予告編

②完璧なタイミングで演出するスピルバーグの凄技

そんな思い出のある映画ですが、野望がありました。それは、今度は子どもと一緒に映画館で観たい…ということ。

「午前十時の映画祭」のラインナップに入ったので、ゴールデンウィークを利用して家族で観に行ってきました。

 

いやあ〜泣きました! 映画館でこんなに何回も泣けたの、久しぶりです。結局は。

思い出補正はもちろんあるけどそれだけでもなくて、普通に「泣きどころ」でことごとく泣かされちゃいました。

自転車が飛ぶシーンで泣き。E.T.が死ぬシーンで泣き。やっぱり生きてたシーンで泣き。お別れのシーンで号泣し。

一緒に行った子どもたちも泣いてましたよ。字幕の映画はほぼ初めてだったけど最後まで集中して、のめり込んで観ていました。

 

何回も何回も観てる映画ですが、映画館で観るのは子どもの頃以来。

もう隅々まで知ってるつもりでしたが、あらためて集中して観るとやっぱりすごい。

映画としての完成度が、ものすごく高いと思います。この時期のスピルバーグは神がかってる。

 

舞台装置を、フルに活用していくんですよね。意味なく、ただ背景になってるだけの景色がない。

自然に満ちた暗い森と、明かりが溢れる街とが隣り合っている新興住宅地の風景。そんな環境だから、人知れず訪れた宇宙人が隠れることができて、それでいて一方で幼い少年と接触することもできる。

トウモロコシ畑に囲まれた納屋の、どこか不気味な感じ。闇の中に照らす光、逆光の中に浮かび上がるシルエット…。

 

何気ないシーンの様々なタイミングが絶妙で、観ていて本当に気持ちがいいんですよね。

納屋に投げ入れられたボールが、投げ返されて戻ってくるタイミング。それを見ていたエリオットが、弾かれたように走り出す、とか。

エリオットがチョコでE.T.を戸口の外まで誘ってきて、チョコがなくなって取りに行って、戻ってみたらE.T.がいない。…と思ったら既に部屋の中に入っている…という一連のワンカット、とか。

どれもなんてことのないシーンで、さらっと流しちゃいそうなんだけど、本当にタイミングが絶妙で。その場面で掻き立てたい感情を、的確に引き出してくれるんですよね。

 

スピルバーグはこれが本当に上手い…って今更言うこっちゃないんだけど。

「ジョーズ」で、ブロディが振り向いたその背後でサメが姿を現わすそのタイミング、とか。そのワンカットだけで、痺れさせてくれるんですね。

「E.T.」では、上記のような細かいタイミングを積み重ねた上で、満を持しての自転車のシーン、ですよね。その完璧なタイミング。

自転車が重力から解放されるとともに、観ている側の気持ちも解き放たれる。最高の気持ち良さをもたらしてくれます。

③大人の顔を映さない子どもの視点

当時はあんまり気づいていなくて、今回観直してあらためて気づいたのが、この映画の独特の視点。

大人の顔をほとんど映さないんですね。冒頭から、E.T.を探す政府職員たちが何人も登場するんだけど、誰もが腹から下しか映らない。

主要キャストであるピーター・コヨーテ演じるキースですら同じで、ベルトについた鍵を見せることで識別させてる。

 

中盤の学校のシーンも同様ですね。先生の顔は映らない。

これ、子どもの視点なんですね。背の低い子どもの視点、エリオットの視点にカメラも降りてきています。

 

常に大人の足元にいて、大人に見下ろされている子どもの視点。

大人が身を屈めてくれない限り、見上げなきゃいけないんですね。子どもは常に、ある種の威圧感の中に置かれている。

だから、子どもたちは子どもたち同士で結束する。互いに視点の高さが合う同士で、独自の世界を作っていきます。

そして、E.T.の背丈もこちら側なんですね。だから、E.T.は大人には見えない。子どもたちとE.T.の心の交流を、大人は見つけることができない…というわけです。

 

エリオットと、妹のガーティ。それにギリギリ、兄のマイケル。マイケルがE.T.に話しかける時には、身を屈めないといけないんですけどね。でも彼はまだ、子ども側にいます。

常に忙しがっている母のメアリーが、もうちょっとのところですぐそばにいるE.T.に気づかないシーンが象徴的です。コメディっぽく描かれていますが、大人には見えないんですね。大人は見ようとしないから。

④子どもと、子どもの心を持つ大人たちの優しい世界

ずっと子どもたちの世界に限定されていた視点が、エリオットの家に政府職員たちがやってくる時点で転換されます。そこで初めて、母親以外の大人たちの顔が映されるんですね。

 

「E.T.」の特徴的なところなんですが、大人も決して無理解で威圧的なだけの存在とはしていない…ということが挙げられます。

ここまで政府の大人たちを恐怖の対象のように描いてきて、サスペンスを盛り上げてきているんだけど、キースをはじめとする科学者たちは彼らなりに真摯に宇宙人に向かっている。

死にゆくE.T.の命を必死で助けようとする大人たちの姿が、フェアに描かれています。

 

この辺り、「未知との遭遇」を引き継ぐ描写ですね。「子どもの頃から宇宙人を待ち続けていた」と語るキースは、スピルバーグの分身のようなキャラクターでしょう。

ただ、本作においては、大人は主役にはならない。科学の進歩とか、人類の発見とか、大人の大義名分はすっと後ろに引っ込んで、あくまでも友達を救おうとする子どもの世界に寄り添って、物語は進んでいくことになります。

 

物語がクライマックスに入り、エリオットたちがE.T.を連れて自転車で逃げるチェイスに入っていくと、大人たちはまた顔の見えないモブに返っていきます。

低い視点から捉えた、追いかけてくる足元であったり、ショットガンを構えた手元であったり。

そして自転車が舞い上がり…舞台が宇宙船の待つ森の奥に移ると、そこにはもう大人たちの世界はない。子どもの世界だけがあるんですね。

追いついてくるのも、ガーティを連れた母親メアリーとキースだけ。

「未知との遭遇」のクライマックスに居合わせるのが「信じる人」だけに限られていたように、「E.T.」では子どもたちと、子どもの心を持つ大人だけに限られています。

 

顔の見えない大人や、ショットガンに象徴される「子どもの思いの通用しない世界」を描きつつも、この映画の中ではあくまでも善良な人々の世界が保たれている。そこが観ていて心地よいところになっています。

夫に去られ、生活に追われて、なかなか子どもたちに向き合えなかった母親も、最後にはエリオットの思いを理解して、彼の友達への思いを共有する。

子どもたちの思いが切り捨てられず尊重される、優しい世界。理想の世界が描かれています。

⑤父親の不在についての変奏曲、そして音楽について

宇宙人と出会い、心を通わせ、そしてお別れする「E.T.」は、「未知との遭遇」の変奏曲であるとも言えます。

でも描き方は対照的。基本的に大人たちの世界だった「未知との遭遇」に対して、「E.T.」は子どもたちの世界であることが徹底されています。

決定的な違いとして、「未知との遭遇」のロイが妻も子も捨てて、宇宙船に乗って一人旅立ってしまったのに対して、エリオットは家族の元にとどまることを迷いなく選択します。

 

「E.T.」の物語は初めから父親が不在になっています。それも死別などではなく、エリオットの父親は「サリー」とメキシコに行ってしまって、もう帰ってこない。家族を捨てて愛人と去った設定です。

それによってエリオットたちは深く深く傷ついているわけですが、これって「未知との遭遇」でロイに去られた家族の姿ですよね。

つまり、スピルバーグは「未知との遭遇」からそれほど間のないこの時点で、家族を捨てる父親のストーリーを、別の側面から描こうとしている…ということが言えると思います。

 

スピルバーグ自身も両親が離婚していて、父親の不在は彼に大きな影響を与えています。

「未知との遭遇」は父との別離を父親側から描いた物語「E.T.」は残された自分自身の側から描いた物語であるということもできそうです。

 

あと、最後に…「E.T.」は音楽が素晴らしかったですね。ジョン・ウィリアムズ

序盤から中盤は、音楽も抑えめに鳴っている。それが、月夜の自転車のシーンで、例のあのテーマ曲が初めて高らかに鳴り響くんですよね。その高揚感と言ったら。

画面と音楽の一体感が素晴らしい。クライマックスの2度目の飛行から終盤まで、音楽と物語のシンクロ感は凄まじいものがあります。

これ、最初はラッシュフイルムに合わせて作曲するといういつもの手法をとっていたけれど上手くいかず、演奏に合わせて編集をやり直して映像を音楽に合わせたのだそうです。

物語と音楽が完全に同期して互いに高め合う、スピルバーグとジョン・ウィリアムズの最高の仕事だと思います。映画館で堪能しましょう!