Mon ange(2016 ベルギー)
監督:ハリー・クレフェン
脚本:ハリー・クレフェン、トマ・グンジグ
製作:ジャコ・ヴァン・ドルマル、オリヴィエ・ローサン、ダニエル・マルケ
音楽:ジョージ・アレクサンダー・ヴァン・ダム
撮影:ジュリエット・ヴァン・ドルマル
編集:マティアス・ヴェレス
出演:フルール・ジフリエ、エリナ・レーヴェンソン、マヤ・ドリー、ハンナ・ブードロー
①詩のような映画
目の見えない少女と、目に見えない少年の恋。
何というか、詩のような映画でした。
ファンタジーといえばファンタジー。コメディといえばコメディ。
おとぎ話のようでもあり。でも結構エロチックでもあったり。
消失マジックを得意とするマジシャンと、そのパートナーのルイーズ。マジシャンの夫に捨てられたルイーズは心を病んで精神病院へ。誰にも知られずにルイーズが産んだ子供は、姿の見えない透明な子供でした。ルイーズはその子をエンジェルと名付け、愛情を注いで育てます。
やがて少年になったエンジェルは、隣の屋敷に暮らす盲目の少女マドレーヌと出会います。マドレーヌはエンジェルが見えないことにも気付かず、匂いと気配で彼の存在を察知します。
互いに惹かれあう二人。しかしある日、マドレーヌは視力を回復する手術を受けるために、屋敷を立ち去ります。ルイーズも亡くなり、一人でマドレーヌを待つエンジェルですが…。
冷静に考えれば、ツッコミどころはたくさんあります。
いくら見えないと言っても、入院中の患者が子供を産んで育ててたら誰か気づくだろう、とか。
マドレーヌはエンジェルが全裸であることには気づかないのかな?とか。
ルイーズも死んじゃったら、エンジェルはいったいどうやって食べ物とか得ていたんだろう…とか。
まあ、でも、そういうことが気になる映画ではない、ですね。
あくまでも寓話。あくまでもファンタジー。
「目の見えない」と「目に見えない」の言葉遊びのような。だからあくまでも、美しいイメージと詩の世界。
非常に視点が限定されている映画です。
登場人物も、ルイーズとエンジェル、マドレーヌしか出てこない。
病院の医者とか他の患者とか、マドレーヌの家族とか、ほとんど画面に映らない。
エンジェルの実在を検証するような、客観的な視点があらかじめ完全に排除されています。
映るのは、エンジェルの主観視点による、エンジェルの好きな人物たち。
画面にはエンジェルの好きな人だけがずっと大写しになっています。幼いうちは母親、大きくなってからは愛するマドレーヌ。
幼いマドレーヌを眺める同じ視点から、ジャンプカットで少女のマドレーヌへ。映画の文法に大胆に主観を織り込んだ演出で、なかなか新鮮な映像を見せてくれます。
ほとんど個人の心象風景をつないだような、とても主観的な映画。やはり、詩のような映画です。
小説のように理屈で解析するのではなく、詩のように感覚で味わうべき映画と言えるでしょう。
②一人称で恋愛を疑似体験
多くの場面で、視点がエンジェルの主観に置かれています。観客はエンジェルと一体化して、彼と向かい合うルイーズやマドレーヌの顔と正面から見つめ合うことになります。
その結果、透明人間という特殊な存在であるエンジェルに、観客はほとんど同一化させられることになります。
自分なんだから、もうリアリティの有無なんて問題にならない、ってことになるんですね。
その存在がリアルかどうかより先に、心情にシンクロさせられてしまいます。
いわば、透明人間の人生の疑似体験。
なんですが、描かれるシーンは極めて限定されているので、観客が味わう感情も限定されることになります。
描かれるのは、母ルイーズと真正面から見つめ合う、親子の愛情の交換。
そして、様々な年齢のマドレーヌと真正面から見つめ合う、男女の愛情の交換です。
主観視点による、恋愛の疑似体験。
映画を通して観客は、うぶ毛まで見えそうな至近距離からマドレーヌを眺め、まっすぐに目を見て、うなじとか腕とか髪の生え際とか胸とかを見て、エンジェルの感じているドキドキを共に体験していくことになります。
子供時代のマドレーヌとの出会い、その初めて感じる恥ずかしいような感情。
成長したマドレーヌとの、恋愛感情の芽生え。至近距離から唇を見つめ、欲望が目覚めていくムズムズする感覚。
そして、大人の女性になったマドレーヌとの、はっきりセックスを含んだ関係。
その視点から見ると、エンジェルが透明であることは、観客が主観視点に同化するために必要な装置であるようにも見えてくるんですね。
顔を持たない、何者でもない主人公であるからこそ、これだけ観客が同一化することができる。
気恥ずかしいような若者の恋愛の疑似体験は、後半はセックスの疑似体験へと発展していきます。
かわいいビジュアルイメージだったので油断していると、結構直接的でドキッとします。
VR装置を使わなくても没入度の高い、恋愛シミュレーション映画という見方もできますね。
キャストのインタビュー映像です。
③”想像上の人物の主観”というかつてない視点
象徴的な描き方がされているかと思えば、ある部分ではとても直接的だったりします。
透明な赤ん坊に吸われる乳首、とか。透明な手で揉まれるおっぱい、とか。
そういうところはほとんどコメディみたいに見えます。
一筋縄ではいかない映画。
また、この映画から排除されている第三者の視点で、この世界を見たとしたら。
精神病院で見えない赤ちゃんを出産し、見えない子供を育てる女。これ、典型的な狂人のありように見えますね。
エンジェルの存在は、ルイーズの妄想に他ならないように見えます。
盲目の孤独な少女が、自分を愛してくれる王子様と出会うことを夢見るというのも、いかにもよくありそうなことです。
盲目の想像力豊かな世界が生んだイマジナリーフレンド。現実に適用すれば、マドレーヌにとってのエンジェルは、そんな存在に落ち着きそうです。
そんなふうに考えるとこの映画は、複数の人物によって生み出された想像上の人物を、その想像上の人物本人の視点で描いたお話である、というような解釈もできそうです。
なんだそりゃ、と言われそうですが。
誰かの想像上の人物が、一人称で自身の物語を語る。そんなアクロバチックなことができるのも、映画という表現ならではの面白さじゃないでしょうか。
最後に、キャストについて。
3つの年代に渡って、3人の女優によって演じられるマドレーヌも、三者三様の美しさがあってとても良かったんだけど、注目したのはルイーズを演じたエリナ・レーヴェンソン。
この人、ハル・ハートリーの「シンプルメン」(1992)で、ボーダー着ておかっぱ頭でソニック・ユースに合わせて踊ってた人。
な、懐かしい!と思いつつ、あの元祖オリーブ少女みたいだった人が、こういう役を演じるくらいの年月が経ったのだなあ…と思わず遠い目になったりします。
ジャケットでボーダー着てる人がエリナ・レーヴェンソン。