太陽の王子 ホルスの大冒険(1968 日本)

演出:高畑勲

脚本:深沢一夫

製作:大川博

作画監督:大塚康生

美術:浦田又治

場面設計・美術設計:宮崎駿

原画:森康二、奥山玲子、小田部羊一、宮崎駿、大田朱美、菊池貞雄

音楽:間宮芳生

声の出演:大方斐紗子、市原悦子、平幹二朗、堀絢子、東野英治郎

 

①子供時代に刷り込まれた高畑作品

世代的なものだと思いますが、高畑勲監督の作品は、子供時代にほとんど刷り込みのようにして入り込んでいます。

幼少期に、「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」という、日本のテレビアニメ史上もっともクオリティの高い作品たちを見てしまってる。

いまだに並ぶものがないこれらの作品の高水準が、自分の中のアニメの基準になってしまっていますね。

 

よく言われる、高畑勲監督の日常描写

SFでもギャグでもなく、ただあるがままの日常を映し出しているだけなのに面白い。再現された日常の、あまりの緻密さに圧倒されてしまいます。

「ハイジ」での、毎回じわじわとしか話が進まないのに、いまだ誰もが語り草にする名場面の多さ

「母をたずねて…」での、ジェノバの町の喧騒や、南米の原野の果てしなさをそのまま取り出してフイルムの中に封じ込めたような、背景描写の濃密さ

「赤毛のアン」での、ろうそくの光に照らされた暮らしの肌触り

詳細なリサーチをして、正確さを追求して、それを動きの中に落とし込むことで初めて実現できる、とてつもなく手間のかかった表現たち

 

そこに、高畑勲監督のもう一つの特徴であるきめ細かな心理描写が加わることで、画面の濃厚さがとんでもないことになるんですよね。

なんでもない、ほんの僅かな心の揺れが、表情の変化として画面に表れて、引きつける物語になっていく。

だから、たとえ「今回ハイジとペーターが山で遊んでただけだよなあ…」みたいな話であっても、強く心に残ることになる。

子供心にしっかり刻まれて、いまだに大きな影響を与えている…ということになります。

 

さらに僕は関西人なので、「じゃりン子チエ」が刷り込みになってます。昔は、それこそ毎日のように再放送してましたからね。

高畑勲監督の、宮崎駿監督との違いとして、絵を自分で描かないということがあげられます。だから、観ていて高畑作品であることを強く意識することはあまりない。

「じゃりン子チエ」は原作モノだけど、やっぱり高畑作品だと思うのは、ここでも濃密な日常描写と心理描写が突き詰められていることです。こと細かな下町の生活と、チエちゃんはじめ登場人物たちの繊細な心理。コテコテのギャグで隠れがちだけど、やはりそこが魅力になっているんですね。

 

 

 

 

②情熱に溢れた若い映画

追悼のつもりで、家にあったDVDで「太陽の王子 ホルスの大冒険」を観ました。

高畑監督の初監督作品。1968年だから、なんと50年前の作品です。

 

それだけ昔なので、さすがに古めかしさはありますし、技術の点ではもちろん現在の映画の方がずっと進んではいます。

でも、テンポの良い展開は今でも決して見劣りしない。子供たちと一緒に観ましたが、普通に引き込まれて楽しんでいました。

 

冒頭から、ホルスと狼の戦いで絵が動く動く。

作画枚数15万枚「AKIRA」や「ポニョ」にも匹敵する尋常じゃない枚数です。

CGなんてもちろんない時代。動きの枚数分の絵をひたすら丁寧に描いている。その辺がアナログの味というか、描き手の努力が画面にありありと見えるんですよね。いったいどれだけ絵を描いたんだ、という。

それでもなお間に合っていなくて、無念の止め絵パートがあるんですけど。

 

とにかく、いろんなところから作り手の情熱、画期的な映画を作ってやろうとする意欲、そのための途方もない頑張りが伝わってくる。まずはその熱さが魅力的な作品です。

 

③緻密な背景と心理描写

そして、高畑監督の特色である緻密な背景と心理描写。

北の国の、過酷な自然の中で地に足をつけて暮らす人々の、楽しくもあり苦しくもある日常が、豊かに描き出されています。

どこの国とも特定されない北欧かロシアあたりの世界観で、鮭の遡上を頼りに生きる人々。

悪魔との壮大な戦いを描きながら、ホルスの物語はこの小さな村から一歩も出ないんですね。お話をむやみに広げることなく庶民の共同体に絞って、名もなき民が主役の物語に集約させています。

 

この村にホルスが訪れて、起こっていく波紋が物語の主題になっていきます。

そして、遅れて村にやってくる少女ヒルダが、さらに大きな波紋を起こしていくことになります。

これまでの漫画映画の常識を打ち破る、深い陰影のあるキャラクター

 

ヒルダは悪魔に滅ぼされた村の生き残りとして登場し、ホルスに出会って保護されるのですが、実は悪魔グルンワルドの妹。

歌で人々の心を惑わし、村人たちの間に不和を起こさせて、ホルスを追放させようとする。つまりは完全な敵であり、悪の手先です。

物語を通して登場する唯一のヒロインが悪の手先であるというのは、今日までのアニメ映画の中でも極めて異色なのではと思われます。

 

ヒルダが複雑なのは、彼女は生まれつき悪魔の妹というわけでもない。悪魔に滅ぼされた村の生き残りというのも、本当なんですね。

ただ一人生き残った犠牲者である彼女が、悪魔に命の珠を授けられ、利用されているという構図です。

彼女も残虐な行為の被害者なのに、悪の側に立たされて、人々の憎しみを向けられる側になってしまっている。あまりにも過酷な運命を背負ったキャラクターと言えます。

 

高畑監督はヒルダの複雑な心理を、実に繊細な心理描写によって描く出していきます。

実写映画以上に「人間を描く」ことに迫っているこの心理描写こそが、「ホルス」がアニメ映画史上において画期的であるポイントだろうと思います。

 

くるくると、目まぐるしく変わるヒルダの表情。

陰謀をめぐらす村長に側近ドラーゴにホルスの斧を手渡す時の、ニヤッと浮かべる不敵な笑いが強烈に印象的です。

悪魔的であったり、ある時は虐げられた少女であったり。実に複雑な内面の多様性を見せ、それでいてしっかりと一人の人間としてのヒルダを描き出している。この辺りが、まさに高畑勲監督の真骨頂ですね。

 

辛く厳しい境遇にあるヒロインは、従来なら英雄たるホルスに助けられる役回りになるところですが、ヒルダは助けを求めたりはしない。

最後まで一人で立って、反対にホルスを助けることになります。

 

この強い少女の系譜は、その後もジブリの諸作品に引き継がれていくことになります。

特に、宮崎駿監督の映画のトレードマークになっていきますね。単純明快な男に対して、複雑な事情を背負った少女たち。

影の存在によって支えられ、負い目を背負ったヒロイン像は、クラリスやシータへと発展しています。

ヒルダはその原型的な存在とも言えます。高畑勲監督が宮崎駿監督に与えた影響という点でも、見所のある映画だと思います。