2017年は同じアンドリュー・ガーフィールド主演キリスト教を主題にした映画が2本ありました。

1月公開のマーティン・スコセッシ監督作「沈黙-サイレンス-」と、6月公開のメル・ギブソン監督作「ハクソー・リッジ」です。日本を舞台にしていることも、共通していました。

どちらも宗教に帰依することと現世との軋轢を描いていて、そんな中で宗教を信じる個人がどう行動するかを描いていた…のですが、描き方は非常に対照的というか。まったく違うものになっていました。

 

①沈黙ーサイレンスー

 

Silence(2016 アメリカ)

監督/脚本:マーティン・スコセッシ

脚本:ジェイ・コックス

原作:遠藤周作

アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、リーアム・ニーソン、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形、塚本晋也

 

 

沈黙」ではアンドリュー・ガーフィールドアダム・ドライバーの若い宣教師が、隠れキリシタンの村に潜んで文字通り命がけの布教に臨みます。

布教する側も命がけなら、信者の方も命がけ。息を殺し地べたに伏すような暮らしを強いられ、摘発されれば拷問されて転向を強いられ、それでも踏み絵を踏まなければ張り付け打ち首簀巻きにされて海の底、です。

 

観ているうちに、だんだん疑問が湧いてくるんですよね。どうしてそうまでして、踏み絵を拒まねばならないのか、と。

幕府の役人の側は結構優しげにも描かれていて。形だけだから、一回踏んだら許してやるから、という言い方になっていく。それでも踏まない。踏まない以上どうしようもない、拷問もしなくちゃならんし殺さねばならない。それでも踏まない。

信者でもない身の上としては、そうまでして反抗することが理不尽に思えてくる。信仰なんて心の問題なんだから、さっさと踏めばいいのにと思えてくる。

 

観ていると、逆に弾圧する理由が理解できてくるんですね。こうまでしてもお上の言うことを聞かず、外国の神に殉じるということは、外国人の号令一つで反乱に転じるだろうと想像はつく。そうであれば、幕府の立場としては許容するわけにもいかない。

実際、中世の布教政策は植民地主義と切り離せないわけで。もちろん個々の信者には悪気はないんだけど、彼らはそうした大国の思惑の犠牲者でもある。

 

更に、布教する側である宣教師が捕らえられると、村人の命と引き換えに転向を強いられることになります。

そうなると、いったい何のために殉教するのかという話になってきます。

転向すれば、村人を救える。罪のない人々を救うことこそ、宗教者の役割ではなかったか。自分が信仰を捨てたくないという利己的な理由で村人が命を奪われるのは、信仰に反することではないのか。

 

信仰を捨てれば村人を救える。でもそれは、本来の大目的であったはずの神に仕えることを放棄することを意味する。

主人公たちに芽生えてくる疑問と矛盾を、観客も同時に感じ、体感していく。そんな作りになっています。

 

神のために、罪のない民衆が次々と死んでいく、そんな状況においても神は沈黙を続けている。

それがタイトルの由来になっています。神の沈黙と延々と続く地獄のような状況は、神の不在を意味するのか

神が存在し、沈黙を守っているのなら、その理由はいったい何か。

極限状況を観客も一緒に疑似体験しながら、そんな思念を深めていくことになります。

 

 

②ハクソー・リッジ

 

Hacksaw Ridge(2016 アメリカ)

監督:メル・ギブソン

脚本:ロバート・シェンカン、アンドリュー・ナイト

アンドリュー・ガーフィールド、サム・ワーシントン、ヴィンス・ヴォーン、テリーサ・パーマー、ヒューゴ・ウィーヴィング

 

 

こちらの映画では、アンドリュー・ガーフィールドは第二次大戦の志願兵デズモンド・ドス。キリスト教の「汝殺すなかれ」の教義に忠実に、敵を殺すどころか銃を持つことすら頑として拒否し、志願兵の訓練に軋轢を引き起こします。

 

異質な信仰を問題視した周囲の人々が、なんとかしてその信仰をやめさせようとする。しかし本人はどんな迫害を受けようとも屈せず、頑として信仰を続けていく。

そのような基本的構造は、「沈黙」と共通しています。

 

信者側から見れば、命より大切なものが権力者によって脅かされるという許されざる事態であり、理不尽な抑圧への抵抗を描いたお話ということができます。

しかし視点を変えてみると、一人だけ迷惑なわがままを続ける者に手を焼いた周囲の人々が、あれこれと説得するけれど頑固に拒絶される…というお話にも見えてしまいます。

そして、やはり宗教に縁のない僕のような者は、どうしても後者の見方を否めないんですね。

 

「沈黙」の場合は、鎖国期の日本に入ってきた宣教師の話なので、キリスト教そのものが異物です。

対する「ハクソー・リッジ」では、キリスト教自体は皆に浸透しているアメリカが舞台。皆が「常識的に」信仰を持っている中で、主人公だけが個人的な異様な信仰にこだわっている、という状況になります。だから、やはりこっちの方が「わがまま」に見えやすい。

さらに、志願兵ですからね。殺すのが嫌なら志願しなきゃいいだけのはずだから、周囲の人々も迫害とか意地悪以前に「意味がわからず戸惑っている」というのが大きいです。観ている方も、なかなか主人公には感情移入しづらい

 

それでもなお、最初はいろいろ反発があるけど最終的には、そんなドスの行動も「尊重すべき個人の自由」として受け入れる。それが、アメリカという国の凄さなんですよね。

後半は壮絶な沖縄戦が舞台になるだけに…日本人がギリギリの状況で決死の戦いをしている時に、一方では銃を持たない権利と自由を認めた上で戦争やってるんだから、こりゃ勝てるわけないですね。

 

「ハクソー・リッジ」における信仰は、とことん個人的なものになっています。

つまり、主人公ドスが「殺さない、銃を持たない」というのはあくまでも「私は」殺さないということでしかない。

思想信条的に殺すことを否定するなら、本当なら戦争自体を否定する方向に向かいそうなものですが、ドスは決してそこへは向かわない。仲間が殺すことも、自国の軍隊が日本人を惨殺することも、まるっきり彼は気にしているようすもない。

本当に、それは全然別なことなんでしょうね。そういう心の有り様が、むしろ新鮮に感じました。

日本人なら、自分が殺すべきでないという思想を持っているなら、きっと戦争自体に反対する方向に向かうと思う。自分が殺さないとしても、仲間が殺すことを止めないなら同じだと日本人なら考えるんじゃないでしょうか。

でも、これが欧米的な個人主義の考え方なんだろうとは思います。神との関係はあくまでも自分個人の問題であって、他の人とは関係がない。

ドスの場合は極端なので異様さが際立っているけど、でもたぶん基本的にはこれが欧米の常識的な感覚なんだろうなあ、と。

 

そして、このような個人をも呑み込んで、「それはそれ」で平気で殺しができてしまうアメリカの軍隊が、沖縄の日本兵たちをスプラッタな特殊効果で殺戮していく様が後半のクライマックスになります。

ドスも、救護兵として命知らずの活躍をして多くの兵士を救って英雄に。みんながドスを見直して、映画はヒロイックなハッピーエンドへ…となりますが、もうドスの活躍は別に彼の信仰とはなんの関係もなくなっていますね。

 

観ているうちにいろいろな疑問や矛盾点が頭をよぎるのはこの映画も「沈黙」と同様ですが、そこで「沈黙」が向かっていく自己批判や価値観への疑念には一切向かわない、のがこの映画の特徴であると言えます。

アメリカ映画全体が、こうなのかもしれないけど。日本人原作で、スコセッシという異端者が監督した「沈黙」があくまでも例外的なだけで。

自分の信念や信仰を疑ってしまったら、英雄にはなれませんからね。

「沈黙」が興行的にかんばしくなく、賞レースにもほぼ無視されていた一方で、「ハクソー・リッジ」は大ヒットして、技術賞ながらアカデミー賞もとっている、というのが示唆的かもしれません。

 

日本であることも、宗教色もほぼ見えない、戦争映画ルックな予告編

 

③再び、沈黙ーサイレンスー

 

「沈黙」の印象的なのは、音楽を排して自然音を生かした作り。日本の四季に応じた自然の中のさまざまな音…虫の声や風の音、波の音などが、音楽よりも雄弁にテーマを際立てていたと思います。

 

オープニング、日本の田舎でならどこででも聞かれる、自然の物音が流れます。

夜の暗闇の中に響き続ける、鳴く虫の声。深い草藪の茂みの中で、途切れなく泣き続けるコオロギやスズムシなどの大合唱。

その声が高まっていき、そして突然、ぴたっと途絶えます。

そしてタイトル「Silence」が出る。

文字通りの「沈黙」を表しているのですが、しかし「虫の声が途絶える」ということは、逆にそこに誰か人がいることを示しています。

 

隠れキリシタンの村で、幕府の摘発を逃れて山小屋に隠れる宣教師の二人。狭く暑苦しい小屋の中に身を寄せ合って息を潜め、夜をやり過ごしています。二人を包むのはうるさいほどの虫の声。

しかしその声が、不意に途切れる。沈黙が訪れる。

二人は逆に緊張して、床下に身を隠します。鳴いていた虫が鳴き止んだということは、誰かが近くにやってきた…幕府の追っ手が近づいていることを意味するかもしれないからです。

沈黙が不在ではなく、なにものかの存在を意味することもある

ということは…それはもしかしたら、幕府の追っ手ではなくて、彼らが受難の中で待ち望んでいる神かもしれない

 

映画「沈黙」は暗く深い自然に取り囲まれた映画で、その自然の中には映画全体を通して、常に神の気配が静かに漂っています。

神はどこにもいないし、同時にどこにもあるとも言える。

キリスト教への深い洞察が、思わぬところで日本の「八百万の神」的な、自然の中に偏在する神の概念につながっている。そんなスリリングさを感じます。

 

「沈黙」の底にあるのは、キリスト教という既成の枠組みへの疑い。その戒律をきちんと守る限り、苦しむ民を救えないという欺瞞への気づきです。

そしてその先にある、普遍的なもの…既成宗教の枠を超えた、本来の”神”を見つけ出そうとする試み

その結果、スコセッシが遠藤周作の意志を受けて創り出す世界観は、日本的な神の概念にまで近づいている。

でもたぶんそれは普通のキリスト教から見れば異端で、理解されないものなのだろうと思います。

我々に、「ハクソー・リッジ」の価値観が理解しきれないように。

 

既成概念への疑いを突き詰めたあげく異教的な概念にまでたどり着く「沈黙」と、あくまで既成の概念の中にあって、我々とは異なる”アメリカ的なるもの”が見えてくる「ハクソー・リッジ」。

どちらも、すごく考えさせてくれる映画。観て良かったと思える映画だったと思います。まだの方は、ぜひどうぞ。