Murder On The Orient Express(2017 アメリカ)

監督:ケネス・ブラナー

脚本:マイケル・グリーン

原作:アガサ・クリスティ

ケネス・ブラナー、ミシェル・ファイファー、ペネロペ・クルス、ウィレム・デフォー、ジュディ・デンチ、ジョニー・デップ、ジョシュ・ギャッド、デイジー・リドリー

 

 

①誰もが結末を知ってるミステリ

 

このレビューはネタバレなしで行きます。ミステリなんで。

ただ……オリエント急行殺人事件というのは、世界でいちばん結末が知られているミステリと言っていいんじゃないですかね。

世界でいちばん、誰もが犯人を知ってるミステリ

ナイル殺人事件とか地中海殺人事件の犯人はもう覚えていないけど、オリエント急行はそりゃ…ねえ。覚えちゃうじゃないですか、どうしても。

お話はおおよそ既に知ってる…という状態になっちゃうのは如何ともしがたく、ミステリとしてはどう考えても最初から不利。前の映画と比べて見ちゃうのも仕方がない訳で、映画としては初手から結構なハンデを背負ってると言えます。

 

なので、一抹の不安も感じながら観たわけですが。

結果的には、良いところもありもうひとつ合わないところもあり。そんな印象でした。

僕の個人的な感覚としては、序盤がもっとも良かった。中盤から終盤にかけて、どんどん期待と違う方向に進んでいった……そんな印象でした。だから残念ながら、満足感はやや低め。

 

ただ、終盤にこの映画が向かう方向性は、それはそれで確かにあり得る方向だし、ケネス・ブラナーが撮るならそうなるのは頷ける、というものではありました。

だから、決して失敗作ではないと思う。ただ僕の好みと合わなかっただけで。この方向性がすごく合う人も、大勢いるとは思います。

 

②“旅映画”として盛り上がる序盤

 

序盤がワクワクするのは、旅の楽しさが存分に描かれているところ。

アガサ・クリスティのポアロもの映画の面白さって、「旅もの」としての面白さが多分にあるじゃないですか。

それも、現代のせせこましい旅じゃない。古き良き時代の、優雅でのんびりした豪華列車の旅

今回の映画はエルサレムから始まり、始発駅であるイスタンブールの市場の喧騒もたっぷり見せて、エキゾチックな辺境の旅気分をじっくりと味あわせてくれます。

俯瞰で捉えた往年のイスタンブールの街並を、オリエント急行が煙を吐いて力強く発進していくシーン。CGだとわかってはいても、やっぱり気持ちが高揚する。盛り上がります。

 

そして、コンパートメントやラウンジカー、豪華なディナーなどの、豪華特急列車ならではの楽しさの描写。

高級な観光列車とか寝台特急とか、最近の日本でも流行ってたりはしますけど、スケールが違い過ぎます。やっぱり“本物”は格別の存在。

いくらお金をかけても現代ではもう再現できない、その時代ならではの特別さがオリエント急行にはありますね。僕は別に鉄オタではないですが、やはり憧れます。

 

そして、そこを舞台にこれから起こる殺人事件へ向けて、役者が揃っていく盛り上がりもあります。

本格ミステリって、そういう様式美的な盛り上がりがあるんですよね。舞台が整って、やがて被害者と容疑者になる役者が出揃って、いよいよその時を待つ気持ちの高まり。

雪の山を進むオリエント急行の迫力ある映像も相まって、ぐんぐん期待を高めてくれます。

 

しかし、映画が躍動感を持って進んでいくのはここまで。

ここから先、実際に事件が起こって、列車が雪崩に埋もれ止まってしまった瞬間を境目に、映画自体もピタリと動きを止めてしまいます。

そして、舞台劇のような地味な展開に入っていくのです。

 

③捜査はするけどミステリに向かわない中盤

 

ミステリ映画のお約束として、中盤はポアロによる捜査シーンということになります。乗客一人一人の話を順番に聞いていくわけですが、ここのところが…正直、退屈でした。

 

工夫はしてるんですよ。単調にならないように、取り調べの場所を変えたり、窓越しに撮ったり、見え方を変える工夫はしている。

でも、観ていて思ったのは、この映画回想シーンが少ないんですね。ミステリ映画ではつきものの、「その時私はこうしていました」が映像で再現される回想シーンが少ない。だから、基本会話ばかりが続く。

止まっている列車内という限られた場所で、動きのない会話シーンが続くので、どうしても単調になってしまいます。

 

そして、今回の映画化での焦点の問題があります。

観ていてだんだん気づいてくるんですが、今回の映画化では、事件の本格ミステリ的な側面はあまり重点を置かれていないんですね。

 

壊れた時計からの、犯行時刻の問題とか。

ポアロが夜中に聞いた声や物音の問題とか。

互いに見張りあった状態の狭い客車内での、犯行の不可能性の問題とか。

要は、この事件の本格ミステリ的な要であるはずの、アリバイトリックの問題がほとんど前面に出てこないのです。

本格ミステリの捜査部分って、面白いのは本来そこですよね。限定された手がかりから推理して、起こったことはああだったんじゃないか、こうだったんじゃないかと様々な仮定を積み重ねて考えていく。

その結果、事件の不可能性が浮き彫りになるほど、最後の謎解きが劇的になるというもの。

そこの部分がバッサリ割愛されているので、捜査シーンがますます薄味になっちゃってます。

 

では何に重点が置かれてるのかというと、殺人の背景にある過去の悲しい事件についての部分です。

この事件のもっともエモーショナルな部分ですね。そこに焦点が絞られているので、映画は後半になるに従ってどんどん情緒的になっていきます。

 

俳優である監督がリメイクするにあたって、そこに焦点を絞りたくなるのはわかるんですが……。

でも、オリエント急行殺人事件といえば本格ミステリの代名詞ですからね。トリック部分が薄められているのは物足りなく感じてしまいます。

皆が真相知ってる問題」的にも、どうかなあという思いがあって。

いや、細かいトリックって忘れてるじゃないですか。覚えてるのは、この事件の背景から判明する動機の部分、そこから導かれるメインの大仕掛けの部分であって。

細かいトリックが省かれて大仕掛けだけが前面に出てるということは、捜査の過程で知ってることしか出てこない、という状況になっちゃうんですよ。

その結果、中盤がやたらとダレることになっちゃってると思います。

 

④舞台劇のような終盤

 

1974年版は、監督の映画でした。シドニー・ルメットという職人監督が、技巧を尽くして演出した監督の作品

今回のケネス・ブラナー版は、やはり俳優の映画だったなあ…というのが観終えての最大の印象でした。

撮影や演出で工夫をするよりも、俳優がどれくらい演技ができるかに重きが置かれているんですね。

そういう意味では、舞台の演出に近いと思います。

 

だから終盤は、完全に感情を前に出した、情緒的な演技の応酬になっていきます。

悲しい事件で心に傷を負った“犯人”の、胸に秘めた苦悩

その真相を見抜いてしまったポアロの、法と正義に引き裂かれた思い

ルメット版では基本クールに処理されていたそれらの感情が、ぐっと前に出されていて、大仰な音楽と共に披露されていく。

演技で見せる映画としてはものすごく正統派なんだけど、今時珍しいくらいベタなメロドラマであるとも言えます。

 

これはもう個人的な好みの問題になると思うのですが、大仰な演技、感傷的な盛り上げという方向が、あまり好きじゃないんですよね。

やっぱりもう少し抑制の効いた演出で、感情的でなく論理的な推理でトリックを暴き、スパッと小気味よく事件を解決するポアロが観たかったのです。

 

でもまあ、ユーモアとウィットにあふれた洒脱な本格ミステリ、という路線が観たければルメット版を観ればいいわけで、今の時代にあえて作るなら正しいアプローチだったかもしれないですね。

 

 

⑤アメコミ的ポアロ映画?

 

情緒的な方向に舵を切った結果、ユーモアの要素もほとんどなくなっています。

エルキュール・ポアロってもともとかなりユーモラスなキャラクターだと思うのですが、今作ではその要素は最初からかなり低いですね。

登場時から非常にスマートでカッコいい描写をされていて、追跡や格闘もこなす。アメコミ映画の主役のような、二枚目ヒーローとしてのポアロになっています。

 

うん。なんか、アメコミ映画みたいだった

シリアスでカッコいい行動するポアロ。

彼が“灰色の脳細胞”で対決する、闇を抱えたヴィランたち。

ナイル殺人事件に続くみたいですけど、そんな方向で「ミステリ・ユニバース」みたいになっていくのも、もしかしてアリかもしれない。

ポアロの世界に、ミス・マープルやエラリー・クイーンもクロスオーバー…

うわ、やりかねん気がしてきた。

 

そういう意味では、とても現代的なアプローチのポアロ映画だったのかもしれないです。

人によって好みが分かれると思いますが、観ると結構新たな発見があるかも。

 

 

 

 

シドニー・ルメット監督、アルバート・フィニーがポアロを演じた1974年版

 

 

ジョン・ギラーミン監督、ピーター・ユスティノフがポアロの1978年作品

 

ガイ・ハミルトン監督、ピーター・ユスティノフ続投の1982年作品