Poesia Sin Fin(2016 フランス、チリ、日本)
監督/脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー
撮影:クリストファー・ドイル
アダン・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、ブロンティス・ホドロフスキー、レアンドロ・ターブ、イェレミアス・ハースコビッツ
上が少年アレハンドロ(イェレミアス・ハースコビッツ)、下が老年アレハンドロ(アレハンドロ・ホドロフスキー)
①難解でない楽しい前衛!
前作「リアリティのダンス」のラストシーンから切れ目なく始まる、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の自伝映画の第2章。
前作は生誕地トコピジャを舞台に幼年期から少年期を描いていましたが、今回はサンティアゴを舞台に芸術に目覚めた青年期を描きます。
キャストも共通で完全な続編になってますが、別に前作を観てなくても大丈夫です。安心して本作から観てください。
安心できるかどうかは、わからないけど。
厳格な父親を演じるのは前作に続いて長男のブロンティス・ホドロフスキー。この人は「エル・トポ」で裸の少年を演じていた人です。
青年期のアレハンドロを演じるのは末っ子のアダン・ホドロフスキー。彼は音楽も担当しています。
衣装デザインを担当してるのは43歳年下の奥さんのパスカル・ホドロフスキー。
ファミリー総動員ですね。自分自身の若い頃を描いた映画を、実の息子たちが主演する。アレハンドロお爺さんは幸せ者ですね…。
アレハンドロ・ホドロフスキー自身も出演しています。青年期の自分を演じるアダンの隣に未来の(年老いた)アレハンドロが登場して、自分自身に優しく声をかける。
映画は彼の少年期から青年期にかけての出来事を追っていくのだけれど、現実そのままの描写ではない。
あらゆる物事を戯画化して描く、マジック・リアリズムの手法で描かれています。
当時の街並は寂れた家の外壁に貼り付けたスクリーンの画像で表現されます。汽車は書き割り。
部屋の中には黒子がいて、必要な小道具を後ろからキャストに手渡してくれます。
住民たちが無表情な仮面をかぶっていてたり、サーカスから出てきたような小人や不具者や大道芸人が通りに溢れていたり。
強烈なのがお母さんで、すべてのセリフをオペラで歌います。なんでとか聞かないで。お母さんが登場するたびに壮麗な音楽が流れ、あらゆる会話をソプラノで歌い上げます。
要は非常に演劇的な映画で、極めて前衛的。アンダーグラウンド演劇の世界です。
みんなすぐ脱いでちんちん出すし、いわゆる過激な描写も続出します。
でも不思議なことにこの映画、決して難解な映画ではないし、観る人を選ぶ攻撃的な映画でもない。
とても優しくあったかい、とっつきやすい映画になっています。
ファミリームービーと言ってもいいくらい。
昔の「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」のとんがった印象で、「ホドロフスキーはなあ…」と敬遠してる人も、大丈夫だから観て欲しい。
笑えて泣けて、前向きになれる元気をもらえる。嘘みたいだけど本当。
優しい前衛。楽しい前衛です。
②父親の人生への“肯定”
この優しさ、楽しさの正体は、全編に貫かれているアレハンドロ監督の強い意志です。
それが「肯定」。攻撃的でネガティブな「否定」ではなく、あらゆるものを認め、寛容であろうとする心。
観る人に牙をむいて挑み掛かるような態度でなく、優しく包み込むような、抱きつきに来る態度。
描かれるのは、基本的には暗い少年期なんですね。息詰まる軍事政権の時代、独裁者のような父親の支配下で、怒りと憎しみをたぎらせる日々。
それを自分の息子たちに演じさせて再現していくのだけど、でも怒りを増幅する方向に向かうのではない。
自分の中の怒りや憎しみを受け止めて、一つ一つ許容していく。そんな、セラピーのような過程が映画になっているんですね。
自らの少年期を暴力で支配し、芸術に一切の理解を示さなかった父親への思いは、前作「リアリティのダンス」と今作を通じての大きなテーマとなっています。
無理解な俗物であった父親をあるがままに受容すること。そして、ずっと憎しみの対象だった彼の存在を、肯定的に受け止めること。
父と子の関係をめぐる二部作と捉えられる前作と今作の、これが大きなクライマックスとなっています。
上が青年アレハンドロ(アダン・ホドロフスキー)、下が父親(ブロンティス・ホドロフスキー)と母親(パメラ・フローレス)
③自分自身の若さへの“肯定”
もう一つの肯定は、若き自分自身への肯定です。
俗物の家族から逃れ、詩人として、奇妙な芸術家たちとの共同生活に入っていくアレハンドロ。でも彼はまだ何者でもないんですね。
自分は人と違う、偉大な詩人になれるという自意識だけは強烈に持っているけれど、まだ何も成してはいない。
やみくもな自信とプライドを抱えて、どうしていいかわからずにもがき、自分のエゴを撒き散らして、周囲の人を傷つけたりもする。
芸術家志望の青年…だけでなく、誰しも身に覚えのあるような、若さゆえの“痛さ”。
肥大した自意識に、自分の現実が追いついていない。そんな自分自身の若い頃の姿を、監督は優しく肯定します。
「自分を生きるのは罪じゃない。他人の期待通りに生きる方が罪だ」と。
若い自分自身への肯定だから、安易な自己正当化にも見えてしまいそうですが、そうじゃない。
これはやはり、同じようにややこしい自意識を抱えた、多くの人々に対しての肯定なんですね。
芸術家志望の若い人だけじゃなく、やっぱり多くの人が、自分の自意識と現実のアンバランスや、なかなか落ち着いてくれないエゴを抱えているんじゃないかな。
自分のことを考えると、こうして長文を書き続けているのも、いい年して収まらない自意識を持て余した結果とも言えるわけで。
自分のことを語りながら、同時に一般に訴えるメッセージになり得ている。だから多くの人の心を動かす。
そういう、普遍的な表現になっていると思います。
④すべての「普通でないこと」への“肯定”
ホドロフスキーの映画には、様々な「普通でない人々」が登場します。
同性愛者。狂人。老人。
小人。腕のない人。足のない人。
そんな人々を容赦なく裸にさせて、その肉体を画面に晒すことをする。
一見、見世物的であるようなんだけど、その根底にはやはり彼ら普通でない人々への全面的な肯定があるんですね。
言葉だけでの「差別しない」なんてことじゃない。むしろその肉体を積極的に愛して、なんだったらセックスもするよ、っていう全面的肯定。
オペラのお母さんを演じたパメラ・フローレスが、二役でアレハンドロの初恋の相手である強烈な女詩人、ステラを演じています。
初恋の人はお母さん、という心理学的なことが言いたいのかもですが、画面上の絵面は凄いことになります。どう見てもおばさんの太った女が「きみは僕のミューズだ」ってことになってるので。
でも、これが本当の「分け隔てない」ってことなんだろうなあ、と。
見た目じゃない、きみの内面を愛するのだ…なんて言葉だけなら誰でも言うけど、実践するとこうなるはず。
本物の芸術家なら、外見に惑わされず内面の美しさが見えるはず、なんでしょうか。
ジョン・レノンはそういうことか!と思ったり。
この映画では何度もアレハンドロが素っ裸になるシーンが出てきて、その度に男性器までまる見えなんですが、しかしそうなると男の体って滑稽なんですよね。なんかブラブラしてるから。
服を剥ぎ取り、モザイクとかボカシとかがないと、「普通の人」の体もなんだかヘンテコなものでしかない。だから、本当は「普通」なんてない。
そういうことが言いたくて何度も露出してるのかな……ただ出したいだけかもしれないですが。
⑤前作観てない方が強烈かも
「リアリティのダンス」を観たときは本当に衝撃的で、度胆を抜かれたんですよ。こんな映画があるのか!って心底びっくりさせられました。
「エンドレス・ポエトリー」は同じ方法論で作られているので、どうしても衝撃度は一作目より落ちてしまいます。
また、前作は両親の物語だったので、あの強烈なキャラクターの夫婦が出ずっぱりだったのも大きいですね。今回は彼らの出番が少なくて、やや物足りない。
青年が主役である分、ちょっと役者が一枚足りない感はある。
だから、たぶん「リアリティのダンス」を観てない方が、今作はより純粋に楽しめるかもしれないです。
前作の知識がいる映画では全然ないし、監督の過去作のカルト映画を無理して観ておく必要もないので、ちょっとでも興味があったら是非観てみて欲しいです。
ホドロフスキー自伝シリーズはまだまだ続くみたいです。パンフでは監督が「5部作だ」って言ってました。
次はパリが舞台だって。
90歳近い年齢になって、このバイタリティは凄い。次も楽しみです。
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