坂の上の新緑の町 一章②
いつからだろう。穏やかに過ぎていく時間の流れの中に、ゆっくりと溺れていく自分に気付き始めたのは。
毎日がおんなじ事の繰り返し。変化のない世界でじっとしているのが怖くて、くたくたになるまで街中を歩き回ってみたけれど、私の居場所は見つからない。
昨日も今日も・・・きっと明日も、同じ町、同じ坂道、同じ夕暮れ・・・みんなで同じ進路を何の疑問もなく進んでいこうとする友人たち。
何のために生きている?
鰻屋の店先に置かれた藻で真っ黒に汚れた水槽の前で、少女は重い買い物袋を握りしめたまま、ずいぶん長い間立ちつくしていた。
「ちょっと!聞いてるの、ミドリ?」
突然、耳に当てた携帯から、洋子の甲高い声が飛び込んできた。
(なんだ、まだ話の途中だったのか。)
ミドリは、我に返ると同時に急に足元から昇ってきた冷気に身震いした。
「三沢の言うことだからたいして期待してなかったんだけどさぁ、会ってみたら、これがびっくりするくらいイケメン揃いなの!K大のヨット部って名前だけじゃないんだぁって実感した。」
何を興奮してしゃべくってるのかと思えば、なんだ、明日の合コンのことか。
「今回はミドリの慰労会も兼ねてパーッとやろうって三沢とも話してたの。明日、来れるでしょ?」
洋子はミドリが暇をもて余していることを知っている。
「私は大丈夫だけど・・・」
あんたら、もうすぐテストじゃないの?ミドリは言いかけたが、しょせん自分には関係ないことだと思い直して口をつぐむ。
「じゃ、明日6時ね。」
やっと電話が切れた。ミドリは携帯をポケットに入れると、ようやく重い買い物袋を持ち替えた。 解放された方の手で、隙間風を防ぐためにコートの襟を合わせる。雪が降るかもしれない。
古ぼけたピンクのアーケードの隙間から、どんより曇った夜空を見上げる。
「・・・早く帰らなくちゃ。」
家では母が夕飯のおかずの材料を今や遅しと待っている。
今年もすべった・・・。
商店街を歩きながら、ミドリは今日何度目かのため息をついた。合格発表はまだ先だが、間違いない。
当然の結果だわ。
この一年、ふらふらと遊び暮らしてきたことのツケだ。落ちたこと自体は別に悔しくもなんともない。大学に合格したところで、この単調でクソ面白くもない生活が変わるわけでもない。 さして興味もない授業を聞きながら毎日なんとなく時間を過ごし、時々合コン、暇にまかせて男の子と付き合ってみたりする・・・つまり、今まで通りの日常が続くだけだ。
いい加減うんざりなのだが、かといって他にやりたいこともないし、一人で社会に出るのは怖い。
「・・・親になんて言おっかなぁ。」
凍えたスニーカーのつま先を見つめながら、ため息と共に呟いた。 電柱の蛍光灯をぼんやり見上げる。電灯はもう寿命がきているのか、ちかちかと忙しなく点滅している。
頭の中では、とっくの昔に消滅したと思っていた不安の雲が、じわじわと広がってミドリを支配していく。
いくら悩んだところで、所詮人生なんてなるようにしかならない、とは思うけれど・・・
このまま生き続けていくのはなんだか怖い。 時間に押し流されて、どんどん自分が世界の枠の外に押しやられていく。特にやりたいことも見つからないまま、自分が何のために生きているのか分からないまま・・・。
商店街を抜けると、住宅街を縦断する坂道は既に夕闇に覆われていた。両側に立ち並ぶ家々から、その日の献立の匂いが風に運ばれてくる。ミドリのお腹がぐうと鳴った。坂を登る足が自然に速くなる。
ミドリの家は、坂を登りきったつきあたりにある、善光寺という寺だ。
正門は既に閉まっていたので、敷地を囲む石垣をぐるりと回って裏口から入った。錠を回して、今にも蝶番が外れそうな小さな木のオンボロ扉を開けた途端、上空からしゅるしゅると微かな、風を切る音がしたので、ふと夜空を見上げた。一筋の、目も眩むような明るい光の線が、頭上に覆いかぶさる闇を両断するように、視界を一気に走り抜けた。
流れ星?!
その光のまぶしさと、流れ星というものを生まれて初めて見たせいで、ミドリはびっくりして立ちすくんだが、それはほんの一瞬のことで、まばたきをして見上げれば、また元のように曇った夜空が広がっているばかりだった。
なんだ・・・。
少し拍子抜けがした。
・・・天変地異でも起こるかと思って一瞬期待したのにさ・・・。
勝手口をくぐれば、家はすぐそこだ。敷地の中央にある本堂と、大小の墓石が密集する狭い墓地との間に、肩身狭そうに細長く寝そべっている古い平屋建ての宿坊がミドリ一家の住居だ。
ガラガラと扉を開ける。百年も前から染み付いている強い線香の匂いがぷうんと鼻をつく。
「ただいま・・・って・・・。」
敷居をまたぐと同時に足元でざわり、と空気が動いた気がした。 妙に生暖かいフワフワしたものに、するりとくるぶしのあたりを撫でられて、ミドリは背中のうぶげがザザッと総毛立つのを感じた。
ネコ?
とっさに靴箱に立てかけた大きな姿見で、背後を確かめる。扉のむこうにぼんやり映る小さな闇のわだかまりに気付いて、ミドリは「えっ?」 と振り返った。
目が合った。
玄関の脇に植えられた小さな南天の木の下に、「それ」はいた。 大きさは、猫より一回り大きいくらいだろうか。小型の動物の形をした赤い影法師の頭の部分に、金色の光がふたつ、瞳の形に見開かれ、まっすぐにミドリを睨んでいる。
(なんだこいつ・・・。)
明らかに、ミドリの知る獣の類ではない。尖った耳や、つんと上を向いた鼻、小柄な体の割に大きな尻尾が確認できたが、その全体像はまるで霧で出来ているように、ふやふやと輪郭がぼやけてはっきりしない。しっかりと存在を保っているのは金色に輝く二つの眼だけ。その眼が放つ異様な光に射すくめられて、ミドリは「それ」と真向いに対峙したまま、息をするのも忘れて突っ立っていた。
冷たい汗が一滴、背中を伝い流れる。
どのくらいそうしていただろう。小さな赤い影は、パチパチと、まるで瞬きをするように金色の光を点滅させたかと思うと、突然ミドリにむかって、まっしぐらに突進してきた。
「!」
襲ってくる!?
ミドリは叫ぼうと思ったが、息がつまって声が出ない。逃げようにも、足がすくんでしまって動かない。影は玄関の敷居を蹴り、ミドリの顔をめがけ、高くジャンプした。
「・・・ひっ!?」
目を閉じることさえかなわず、金色の目玉を凝視しながら、尖った牙に噛み付かれる痛みを想像する。 しかし、次にミドリが目にした光景は、そんな予想をはるかに越えていた。影はミドリの胸に頭から飛び込むと、まるで網目を水が通過するように、そのまま体の中をするりと通り抜けていった。
ミドリは目を点にして、みぞおちあたりに吸い込まれていく赤い尻尾を見下ろしていた。
(・・・とうとう私、気が狂った。)
ほんの数秒の出来事が、とても長く感じられた。痛みは全く無かったが、その生き物(?)の尻尾の先が最後、背中から抜け出ていく際、ピリッと静電気のような軽いショックが頭から爪先へ走った。
赤い影は、何でもないようにミドリの体を通り抜けると、玄関から中に上がりこみ、廊下をタッタッタッと小気味のいい足音をたてながら走って行って、突き当たりまで来ると、すぅーと煙のように消えてしまった。
「・・・・・・。」
ミドリはしばらくの間、その場で石になったように立ちつくしていた。