坂の上の新緑の町 -2ページ目

坂の上の新緑の町 一章①

「坂の上の新緑の町」  


  byもじゃん


風の正体を知る人は少ない。 人の目に見えぬそれは、天のはるか彼方、あるいは土中深くにあると言われているその住処から、突如、人の世界に現れて、町の上空を、家々の軒先を縦横無尽に駆け巡り、汚れた町の空気を掃き清める。



空気も凍るような寒い晩だった。


「急げぇいっ!」


駅前の商店街に威勢のいい声が響き渡る。その声に促されるように、冬の終わりの突風が唸りを上げてアーケードの中を吹きぬけていった。 駅前の古い商店街は、今日は早くから客足が途絶え、店々はシャッターを降ろし始めている。


「鬼は~外~!!」


アーケードの外れにある寂れた電気屋から、豆を持った小さな子供が走り出た。子供は店から一歩出るなり、息を飲んでその場に立ち尽くす。


「・・・どうした?」


店の奥から杖をついた老人が現れ、子供に声をかけた。子供ははっと我に返って老人の腕にすがりつく。


「じいちゃん、あれ何?」


そう聞かれて、老人は子供が指さす方を見上げたが、そこにはアーケードの屋根を支える錆びた鉄パイプのほかに何も見当たらない。老人は首をひねり


「何って、何がだ?」

「あれだよ。」


子供は怯えた顔でじっと頭上を見上げている。


「・・・おっきい、青い人。」

「ははぁ~。」


老人は顎を撫でた。


「それはきっと河の神さんだ。今日は節分だからな。このあたりを治める神さんたちが集まってお祝いしておるんだろう。」


しかし、子供の目に見えているのはそれだけではなかった。いつもはがらんとした商店街が、その日その時に限って、異形の影で満ち溢れていたのだ。


赤い人、小さい人、羽根のある人・・・それに・・・


子供は空中のある一点を見つめ、大きく目を見開いたまま数秒停止したかと思うと、突然わっと火がついたように泣き出した。


「おいおい、どうした・・・?」


老人は慌てて、店の中に逃げ込んだ孫のあとを追った。



「やれやれ、可哀想に。」


背中に大きな瘤のある、鶴のように長い首の男がそれを見て言った。


「何もあんな小さな子供を脅かすこともあるまいに。」

「脅かしたんじゃねえ。あいつが俺の顔を見た途端、急に泣き出したんだ。」


むっつりとそう答えた男は、首から上が大きな黒牛の頭だ。瘤男は長い首をくねらせてククク・・・と笑った。


「お前さんの顔を正面から見ちまったら、子供が泣くのも無理はあるまい。」

「なんだと?てめぇ、人のこと言えた義理かっ!」


牛がむっとしてそう言い返した時、


「こらっ!何サボっとる!」

電気屋の前で立ち止まっている二人の上に、雷のような声が落ちてきた。


「ぐずぐずしてっと、あと数時間で暦が変わっちまうぞ。日付が変わるまでに片付けておかなくちゃならねえ仕事がまだ山ほどある。」


そう叫んでいるのは、手も足もない大だるまだ。歩くことが出来ないのでその巨体をごろごろ転がしながら、アーケードの中を移動している。時々帰宅途中のサラリーマンを轢いたりしているが、人間たちは生暖かい風が通り過ぎて行ったぐらいにしか感じていないようだ。


「言われなくても分かってるよ。」


牛男は言い返すと、地面に降ろした大きな荷物を担いで、また歩きはじめた。その途端、どさり、とその背中にぶつかる者があった。


「危ねえな!テメェどこに目ぇつけて歩いてやがる!」


牛男は振り返る。

すらりとした赤い着物姿の若者が立っていた。下を向いているので顔は分からない。ぶつかった事を詫びているのか黙ったまま頭を下げる。手に一枝の紅椿を持っている。その姿がはっとするほど艶やかだったので、牛男はほんの一瞬、気を呑まれたように立ち尽くしたが、すぐに我に返って


「気をつけろぃ!」


怒鳴りつけると、若者はもう一度頭を下げ、足元をうつろに見下ろしたままおぼつかない足取りで歩き始めた。その歩き方があまりに頼りなげなので、


「おい、大丈夫か兄ちゃん。」


牛男は思わず二三歩追いかけて声をかけた。若者は歩みを止めず、背を向けたまま何でもないと言うように首を横に振った。


「あんた、腹減っていなさるんじゃろ?」


と口を挟んできたのは、足元まである黒い衣を纏った背の高い老人。


「どこまで行くのか知らないが、わしの祠、すぐ近くにあるで、何か食べてくか?」


その言葉に若者は立ち止まり、振り返ったが、その顔を覗き見た身の丈三寸程の白い羽の生えた娘が


「あ、この人知ってる。大川の神様のとこで働いてる人だ。」


と言った途端、血相を変えて駆け出した。


「なんだ、割と元気じゃねぇか。」


赤いつむじ風になって商店街を走り抜け、住宅街へ続く上り坂を一目散に逃げていくそのうしろ姿を見送りながら、牛男はぼそっと呟いた。


「善光寺の方角だな。」


瘤男が、若者の去った方向へ長い首をすうっと伸ばして言った。少し休憩が長引いてしまったと感じた彼らは、そろそろと腰を上げ、各々の用事に散って行った。牛男も、


「さ、ぐずぐずしちゃいられねえ。」


と歩きかけたところで、もう一度誰かとぶつかった。


「おっと済まねぇ。」


今度は牛男が謝る番だった。

目の前に佇んでいたのは人間―若い娘だった。

ぶつかった衝撃で娘の足元から大きな木枯らしが巻き起こったが、娘はコートの裾を押さえることもせず、口を固く結び、地面に落ちた自分の影をじっと睨んでいる。飛び出しそうに大きく見開かれた目にはまるで光がない。


こんな往来で立ち止まって一体何を考え込んでいるのだろう。天気こそ鬱陶しいものの、皆がどことなくそわそわしているこの日に、若さも生気もほとんど感じられない娘の無表情は牛男に妙な危惧を抱かせた。


(こいつは、放っぽらかしたままだとやべぇかもな。)


牛は思ったが、日が変わる前に片付けなければならない山のような仕事を思い出し


(ま、今すぐどうにかなっちまう、なんてことはあるめぇ。)


と楽観して、


「頑張れよ、姉ちゃん。」


娘の肩を力を込めて三度叩き、その場を後にした。

ぐらりとつんのめった拍子にはっと我に返った彼女は、慌てて周囲を見回したが、そこには豆まきの子供たちの他、誰もいないことが分かると、再びどこを見ているのか分からない暗い目になって、寒風の中、人通りもまばらになったアスファルトの上をヒタヒタと歩き始める。