豊玉之男《とよたまのお》は、そのまま高天原《たかまがはら》に残り、阿津耳《あつみみ》ともに、松浦から連れて来た瑞穂《ずいすい》と賽《さい》を伴って、高天原の方々を歩き廻った。瑞穂《ずいすい》も賽《さい》も松浦で生まれたとは言え、親は越人で稲作の技術者であった。稲の育ちそうな場所を見つけては、無旦《むたん》王子の安住の場所となるかどうか、四人で相談し合ったのである。

 千曲川《ちくまがわ》流域に三か所ほどの候補を見つけたが、結局、千曲川《ちくまがわ》と犀川《さいがわ》の合流地点からさらに下った場所を選び、屋形を作って無旦《むたん》王子を迎えることになった。


 この地は、浅間の姫神《ひめかみ》科姫(しなひめ)が治めており、このあたりに多い科《しな》の木の山神であった。川筋は、毎年、雨が降る度に変るので、やや高台に、二百人程の集落があり、背後の科山《しなやま》を手入れしている。王子の屋形は流れに沿って、最も奥地の渓谷に建てられた。

 国之常立神《くにのとこたちのかみ》の末裔である諏訪之《すわの》ジン姫神より、科姫《しなひめ》に使者が送られた。科姫《しなひめ》は、気性の荒い樵衆《きこりしゅう》をまとめる山神であるが、賽《さい》という越人の見立てでは、最も立地条件が良いらしい。
 屋形を建てるにあたっては、諏訪宮《すわのみや》と科姫《しなひめ》との間で、屋形周辺の十町四方の土地が諏訪の宮地と交換されることで、折り合いが付いたのだが、改めて、諏訪宮《すわのみや》の使者と阿津見之足《あつみのあし》が最終の見聞を行った時、科姫《しなひめ》の怒りをかった。
 
 足《あし》が田圃《でんぽ》と水路《すいろ》の配置を説明している時であった。

 「足《あし》殿にお伺いします。新しい田圃《でんぽ》には、千曲川から水を引かれるのでございますか。」
 と、科姫が訊ねたのであるが、足には、そのような問いかけに心の準備ができていなかった。

 「いえ、水は科山《しなやま》の高きから流れて、千曲川《ちくまがわ》に注ぎます。その途中の水を、田圃《でんぽ》に導きて、千曲川《ちくまがわ》に流しましょうぞ。千曲川の水をくみ取ることはありません。」

 足《あし》の言葉は、科山里《しなやまのさと》への配慮に欠けていた。科姫《しなひめ》の顔色が、いきなり険しくなったのである。

 「わが里は、全ての河川が千曲川に注いでおります。諏訪宮《すわみや》の田圃《でんぽ》は、千曲川に注ぐ前の科姫川《しなひめがわ》の水にてあります。この水を諏訪宮《すわのみや》は、如何おとり扱いにて御座いましょう。」

 急変した科姫《しなひめ》の怒りに、足《あし》は戸惑った。

 「そ、そ、それは、高きより低きに流れる天の水でありますれば、誰の水でもありますまい。」

 その場しのぎの繕いが、却って墓穴を掘ってしまった。科姫の怒りは、さらに高揚した。

 「ならば、千曲川《ちくまがわ》も天《あめ》の下《した》の水でありましょう。われらも水を引いて構わないので御座いましょうな。新しい田圃《でんぽ》には、常に水を貯えなければならぬと仰せられました。新田圃《しんでんぽ》に科姫川《しなひめがわ》の水が引かれて蓄えらるならば、わが里の水は、如何に相成りましようぞ。」

 足《あし》は気が付くのが遅過ぎた。あまりにも、高天原《たかまがはら》の名代《みょうだい》で来たと言う自負心が強過ぎたのか、威丈高《いたけだか》な物言いになっていたのである。

 「いえ、いえ、その様なつもりで申し上げたのではありません。この地は、新しい稲を秋津洲で本格的に栽培しようとする若木神《わかきかみ》の御意思にて御座います。高天原《たかまのがはら》をあげて取り組むお務めにて御座いますが、もちろん、里の皆様方のご協力なしに出来るとは思っておりません。」

 「ならば、わが里の命の水は、如何なされましょうか。」

 科姫《しなひめ》の意思は、岩のように動きそうにない。足《あし》は返答に困った。すると、足《あし》の伴として控えていた、賽《さい》が、間に入った。

                                  つづく

 

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