とにかく掃除をしたいんです。

自分が帰ってきたときにホッとできる空間。
癒される空間。
回復できる空間。

塵ひとつない、とまでは求めません。
もちろん清潔さは必然ですが、それよりも自分が自分に戻れる空間でありたいのです。

そのための掃除。

この春は寒暖の差が大きくて落ち着かなかったことと、忙しくしていたこともあって
最低限のことしかできなかったけれど。
今の自分に必要なもの、今の自分にはもう不要になったものをきちんと見極めることを、改めて始めましょ。

私はよく物を頂きます。それもほしいな、必要だな、というもの。
とても助かっています。ありがとうございます。

まずは服。もう着ないもの。
おそらく昨年袖を通さなかったものは、もう着ないと思います。
まだ心配ならあと1年とっておきましょ。
自分の運勢というかカルマというか、自分の中の何かが変わると、服も身につけるものも、やっぱり変わってくる。
見た目が変わるというよりも、当時来ていた服は、その当時自分の波長や運勢にあっていた服。

大きく違ってくると、やはり自然と距離ができる。
まだ綺麗なうちに、リサイクルや、必要な方へ。

あと、紙類もたくさんあります(笑)
仕事上、デザインや素敵な言葉のあるもの、これも結構多い。時間がないと、ファイリングできないまま山積みですあせる

これも上手に加工したり、必要な時期が過ぎれば廃棄です。

水周りは、必ず優先で綺麗に!

自分の心が乱れていると、必ず部屋が乱れてきます。
物事には、可逆性があるでしょう?
心が乱れたら、部屋を掃除したらいいんです。
すると、心も静かに落ち着いてきます。
必要なことが見えてきます。

特に水回りね!

そして私は、お香をたきます。

私のお気に入りは、日光東照宮の大雄院で扱っている『家光香』

個人的には、東照宮より大猷院の方が好き。
黒塗りされ、おじい様よりも派手にならないようにと設え荘厳な落ち着きある建築物。


金でできた建物は日本に3つある。

金閣寺
金色堂
大猷院

その中で建物の中に入って参拝できるのは大猷院だけ。

この大猷院で扱っている『家光香』というお香は、とても好き。

沈香の中でも、もっとも高価な〝伽羅(きゃら)〟で作られたお香。
部屋に燻らせ、自分と空間を浄化する。
ゆったりとして上品で深みのある香りだ。

残り香も素敵で、家に帰った時ホッとする。

このお香は何度も買っている。
前回購入したのは、2月半ば。

モチモのブログ


お香立てに立て、火をつけながら当時を思い出す。

当時、家光公の位牌が特別に御開帳となっていた。
そして今年の4月からは、360周年を記念して、御神体を御開帳とのこと。

家康公のお墓も、現在特別に参拝できる。
他の将軍の墓には不可。

そこで考えた。
家康公のお墓が今特別に参拝できるということは
家光公のお墓も400周年になれば、参拝できるかも!

じゃあ、40年後に、また一緒に日光に来ようね、とその時一緒に行った友人たちと約束した。
きっと家光公のお墓に参拝できるよ! って(笑)

40年後の約束なんて、素敵だな~♪と思った。
40年後も友だちでいられるんだと思うと、なんだか嬉しかった音譜

そんなことを思いながら、自分の心を整えるためにも、お掃除ですキラキラ
『 昔々 あるところに おじいさんと おばあさんがいました 』

このフレーズで始まる優しい口調で語り継がれてきた昔話。

私は幼い頃、毎晩毎晩、祖母に昔話をしてもらった記憶があります。

お話しの中には、戒めや生き方を説く物も多くあると思います。
かさじぞう、つるのおんがえし、はなさかじいさん、ももたろうさん、鉢担ぎ姫・・・
恐いお話し、悲しいお話し、楽しいお話し、ハッピーエンドのお話し。

その中で私は、物語ではなくて本当にあったことなのでは・・・と思うことがよくあります。


鬼が出ました。河童が出ました。山姥(やまんば)が出ました。天女がいました。龍が出ました。仏様がましました。

当時のメディアも交通機関も発達していない頃、山姥や鬼の話といった生き物――架空の生命体といわれるもの――が、どうしてあちこちで同じように語り継がれてきたのでしょうか?

本当に見えたんだと思うんです。
恐いやり取りを含め、奇跡的なことを含め、本当にあったと思うんです。

空想豊かな人は、もちろん今も昔もいると思います。

でもどうして?鬼も山姥も仏さまも当時の人にとっては、本当に存在する事実だったと思うのです。

人の心が透明になると、いろんなことが正しく見えてきます。
そしていろんなものが見えてきます。

ものも少なく、物欲も、便利さ・快適さを求める気持ちも、今の人とは比べ物にならないほど小さかったと思います。電気・水道・ガスもありません。生きることに必死で、身近に人の死体が転がっている時代。

人が死ぬと、捨てられる場所があったようです。
人の死にざまは、絵巻物にも描かれています。その様相はリアルです。
どれほど美しい人も、パンパンに膨れ、腐り、動物が食べ、虫がわき、白骨化していく様を見ざるを得なかった。

今の時代、人が死ぬことは隠されています。

私の幼少の頃、祖父は自宅の布団で臨終を迎えました。
今は病院に入れられ、いろんなチューブが付けられ、話すことができなくても意識がなくても生存している。人が亡くなる様子を間近に感じられない時代です。

どんなに悲しくても辛くても、人は逝くものです。
そして生命の儚さを知り、無常を知り、人は生きたと思うのです。

心が透明で合った分、この人の世だけではない、少し次元の違う世界ともつながっていた。

たとえば、戦で武将が負けに転じそうな時、部下のためにと加持を自身の守護尊に祈る。
すると泉がコンコンと湧き出て、力尽きていた者たちが喉を潤し、戦い転じて勝利した。

池の発祥の地の立て札にこのように書かれている場所もあります。

それは御話ではなくて、本当だったのではないかと。
それだけ祈る力も強く、奇跡を起こす力もあったと。

だから日本は、大昔から神の国、神と共に生き、感謝をささげ、祈ってきました。
だから今でも家を建てるときにはお祓いをし、禊を行ない、春祭り、秋祭り、お盆の供養、彼岸、と見えないものとともに生活があります。謙譲語も、自分より目上の者(田の神、山の神、海の神・・・)を立て、自己は謙虚に生きるということからあるのではと思います。
そして一方では呪術の国であり、皆さんもご存じの陰陽師の存在ありと。

きっと、いろんな目に見えない生命体は今も存在していると思います。
善きも悪きも。

だからこそ、いつでも、特に人が見ていない時こそ、恥じない自分でいたいと思っています。







ご飯食べてから、予告のお話です。

私は、ウチご飯派ですので、少々お待ち下さいませ~(o^∇^o)ノ