言い方アレだけど、、
魂を磨く、本質に変える、私になる、、
そんな事を心がけていると、そう言う人ばかりが周りに現れてくるなと。
これは実際に現れてくるし、僕自身がそうなっていくなら人の中にそれらを見ていくようになるからなのかな?とも思う。
そうで無い人と接していても、僕自身がその方に対してそう接しているのであれば、そう言う面が現れてくる。。そう感じている。
結構「厳しい」発言もしていると思うけど、、それはただそう思ってしまっているだけのことをそのまま話ししているだけで、何かマウントしようみたいな心は僕の中には何も無いし、こうすべきだとも微塵も思ってはいない。だって、関係ないから。
ただ、時に「厳しい」と思われるのは、それはその人の「厳しい」と言う概念に反応しているからだと思う。例えば親からの躾られ方とか。何かを言われたことが、痛みや強制と直結しているんだろうなと思う。
何かを教わる、指摘される、学ぶ時、それを「〜しなければならない」と変換してしまうのは非常に勿体無い事だと思うけども、そう言う人は凄く多い。
そう言う人は決まって「妙な正義感」を持っていて、それに縛られている。
自分はそんな正義感の中で生きている素晴らしい人だと思いたいんだろうけども、、結局、それに1番縛られているのは本人だ。
「いや、そうじゃなきゃいけないとかではなくて」とか枕詞をつかったりする。。
そりゃ、そんな事は当たり前だよと思うがいちいちそれを思うから、話がリアリティを持たない。。結局、お前はなんなんだよ?と言う話しだし、僕らはそう言う話ししか出来ない。後はすべて妄想や想像の話しなんだから。誰々が〜と言っていた、と言う話は、言っていたのは事実かも知れないが、その人が〜と思っていたかどうか?はその時点ではわからなくなっているのだから。そんな話を、今目の前に折角違う素晴らしい時間の共有者がいるのだから、しても意味がない、、と思ってしまう。
それを受けて私は〜と感じているんだよね。と。それを共有する為に今があるから。

阻害されている、拒絶されている
そう言う感覚って嫌なのはよくわかるけどね。。それ自体は実は自分が作っているものだ思っている。
人は触られれば無意識的に反応して、抵抗している。引っ張られれば引っ張り返している。それに気がついていない。
コレらは反作用と言う、拒絶なり、抵抗なんだけど、、
コレを僕らは完全に無意識的に空間に対して行なっている。空気の圧にたいして抵抗している。それは物理的には固着であり、緩みにより改善できることかも知れないが、根にあるのは「自分」と言う自我を守りたいからに他ならないと思っている。
空間に自分を溶かす、空間と一体になる、空気にみを委ねる。。
そんな意識を持つことで空間からの反作用を認識して自我を認識することが出来る。
それらを手放して一体となったとき「本当の私」が在る。意識すればスッと消えてしまうその「私」を意識せず感じている状態。そう在る事が魂を磨くとか、本質に帰るとか、私になるとかだと思っている