絵葉書箱を洗っていたら、思わぬ絵葉書が出てきた。汽船の船尾が写る、関東大震災時の東京港の記録である。
絵葉書は、時代により印刷パターンが異なる。コロタイプ製版から網目製版になると、解像度は格段に落ちる。網目製版の絵葉書から船名を読み取るのは、なかなか困難である。その絵葉書は網目製版で、船名も読み取れず、入手してからそれきりになっていた。

見つかったのは芝浦の救難船。印刷は荒く、キャプションは手書き。表面に仕切線や切手位置の印刷はなく、絵葉書サイズではあるものの、写真カードと云った趣。印刷は網目製版で、船名は不鮮明で読み取れない。セロファンの袋に熱密着で封入され、定価シールが貼ってあった。勤め帰りに、新宿西口広場の古本市で、入手したことを思い出した。
被写体の汽船の煙突マークは、大阪商船に見える。マストや煙突の重なり具合から、陸上からの撮影ではなく、船尾側(芝浦で云えば南側)の若干高い位置を足場にしている。「扇海丸」絵葉書の船首側に写り込む汽船は、この船であろうから、恐らく、「扇海丸」の船首に立ち、撮影した写真である。不鮮明ではあるものの、「第二」と、その下に「西」と確認できる。大阪商船資料から、「第二大運丸」に相違なかろう。『船名録』を確認すると、船籍港は西宮。
先の『関東大震災と「扇海丸」』でアップした船影はこれ。凹甲板部分はハンドレールとなっていると確認できる。「第二大運丸」と見られるこの汽船は、『キャパシティプラン集』には収録されないが、『汽船件名録』に船影があった。拡大すると、後部貨物倉ハッチ周辺にブルワークは無く、ハンドレールが確認できる。


「第二大運丸」13689/LPSD、1,044G/T、1911(M44).02、大阪鉄工所。
「第二大運丸」(たいうんまる)を建造したのは、大阪西区出身の実業家林竹三郎。慶応3年1月(1867)の生まれである。林竹三郎は、薩摩問屋山中庄兵衛(→山中回漕店)の子息であるが、1885(M18)年に林家の継嗣となり、家督を相続した。
山中回漕店は、旧幕時代から縁のある九州、奄美、沖縄方面や、北海道方面の産物を輸送していた。竹三郎は実家の家業に携わり、帆船のオーナーとして、山中回漕店へ所有船を貸付けた。
最初に所有した汽船は、新造の「小野丸」8812/JNDG、75G/T、1903(M36).03、小野造船鉄工所。この汽船は1904(M37)に登簿され、船名を「日乃丸」と改名している。次に新造したのは「千賀丸」9353/JSQH、757G/T、1905(M38).01、大阪鉄工所。造船奨励認許船である。船名は、令嬢千賀子から命名された。
続いて建造した「大漁丸」12164/LHPB、168G/T、1909(M42).09、大阪鉄工所は、トロール漁船であった。最初のトロールブーム到来期で、許可に当たって「操業ノ際在来漁業ヲ妨害セサル様注意スヘシ」と条件が付された。竹三郎は「7万円で新造し、一年間で4万円儲かった」と語っている。ところが、母君や夫人より「魚商売だけは後生だから止めてほしい」と懇願され、一年経たずして、「大漁丸」を建造した大阪鉄工所造船部長白戸隆久へ売却している。白戸は「大漁丸」建造に際し、トロール船研究のため、ノルウェーへ派遣された人物。
続いて貨物船2隻の新造を、大阪鉄工所へ発注した。「第一大運丸」「第二大運丸」姉妹は、1911(M44).01及び02に相次いで進水し、共に造船奨励認許船として竣工した。鈴木淳『造船業における貨物船国産化』によると、貨物船建造に係る重大問題は、造船材料の価格上昇と供給の不便であった。造船好況により、当時、英国において造船用鋼材の価格は上昇したが、安価な官営製鉄所製鋼材の使用で、問題は解決されたという。官営製鉄所の鋼材は、明治末から大正の初め頃、輸入材より安価となり、先ず「第一大運丸」「第二大運丸」に使用された。姉妹は、国産鋼材を使用して建造された貨物船の、ハシリとなった。日米船鉄交換の少し前のことである。
竹三郎の船隊整備は、同年(1911)に「大運丸(→第三大運丸)」を購入、1913(T02)に「第六大運丸」「第七大運丸(→翌年沈没・抹消)」を新造登録、1914(T03)に「第八大運丸」を新造登録、1916(T05)に「第九大運丸」「第十大運丸」を新造登録している。(何れも登録日基準)
竹三郎が凄いのは、立て続け、かつ、新造で船隊拡充を図ったこと。船隊整備期と時を同じく、1914(T03)年に世界大戦が勃発した。連合国側の船腹不足により、1917(T06)~1918(T07)に用船市場は暴騰し、所謂、船成金が続出した。
林竹三郎は、1918(T07).07.12逝去した。宮本又次『大阪文化史論』は、竹三郎を「社外船主として第一次大戦中に活躍した『船成金』の偉材であった」と、紹介している。竹三郎は、「社会の公益事業に100万円を寄付する」と遺言していた。親交のあった元大阪商船社長、当時の原敬内閣の文部大臣中橋徳五郎のアドバイスにより、夫人蝶子は、大阪に外国語学校設立をするための資金として、文部省に100万円を寄付した。この資金をもとに大阪外国語学校は創立され、1922(T11).04に入学式が挙行された。同校は大阪外国語大学を経て、大阪大学に統合されている。
事業を法人化することも遺言され、1918(T07).07.20、林汽船は資本金300万円をもって創立された。この社旗は『日本汽船件名録7版』の広告頁に掲載されたもの。同社の特徴として「重量、長尺、大嵩貨物搭載ニ便ズ」とある。
1923(T12).09.01関東大震災が発生した。当時、「第二大運丸」は大阪商船に用船されていた。どのような経緯で東京港に来港したかは、判らない。『大阪商船50年史』は、次のとおり記している。
茲に特筆すべきは同年九月一日突発の関東大震災に際して当社も亦一般救護に従事して大いに活躍せしことである。即ち当時横浜港には社船ろんどん丸・ぱりい丸・湖南丸の三隻が碇泊し居り、孰れも非常の危険を冒して多数の罹災者を救助し、又総べての通信機関を失ひし横浜港に於て唯一の通信機関として公私に盡した。之と相呼応して本社に臨時震災救護輸送部を設置して震災救護に関する配船・輸送等の事務を取扱はしめ、大阪碇泊中の志かご丸を救護第一船として救護品を積載し、又新聞記者其他多数の救護班を無賃便乗せしめて、九月二日午後六時大阪発横浜へ急航せしめたるを最初とし、其後続々救護船を派して阪神京浜間を往復せしめた。当時震災救護事務に使用されたる船舶を挙ぐれば左記の通りである。
志かご丸、扇海丸、はるびん丸、あんです丸、長沙丸、北京丸、銀山丸、名瀬丸、大義丸、富士川丸、東晃丸、あるたい丸、はばな丸、ろんどん丸、ぱりい丸、湖南丸、あらすか丸、ありぞな丸、かなだ丸、まにら丸、第二大運丸
東京市役所『東京震災録』によると、「第二大運丸」は横浜芝浦連絡に従事した。
横浜芝浦連絡 横浜芝浦間の交通途絶し、救護上不便少なからざるを以て、汽船第二大運丸之が任に当り、シカゴ丸其他により両地の連絡を保ち、官私の便に供したり。
絵葉書の捉えた「第二大運丸」の一瞬は、このような任務中であった。『日本新聞年鑑(大正13年版)』にも、「第二大運丸」の活躍が記録されている。東日こと東京日日新聞社は、報知、都と共に、震災の類焼を免れていた。一日も早い新聞発行を目指した東日は、大阪商船「はばな丸」が、大型輪転機用巻取紙500本を積込み、大阪より、横須賀経由で芝浦に向かう情報を掴んだ。同社は、芝浦沖で荷役作業の順番待ちをしていた「第二大運丸」を、積荷のままでチャーターし、16日、同船に社員を乗船させ、「はばな丸」を横須賀港で待ち受けた。途中、暴風雨に遭遇した「はばな丸」は、一日遅れの17日に横須賀港に入港した。早速、巻取紙約200本を「第二大運丸」に積換え、18日午前6時に芝浦へ帰着。東京日日新聞は、18日から夕刊発行を再開したという。見事な新聞人魂である。
「第二大運丸」の誕生と、関東大震災時の活躍を記してみた。この後、川口昌三、南勇太郎と転売され、1941(S16).01.15には門司港で「馬公丸」と衝突し、沈没している。浮揚され、最後は日昭汽船運航が所有した。林寛司『日本艦船戦時日誌』によると、1944(S19).07.02、C貨物船「第二大運丸」は、0001に朝鮮半島南西部紅島沖の34-40N、125-25Eで潜水艦の雷撃で沈没、戦死20名。
一枚の絵葉書から林竹三郎を知った。氏に大きな運をもたらした大運丸。船成金ともてはやされた氏は、その絶頂期に急逝された。林汽船の最期は、良く判らない。精算人の名が見え、所有船も散り散りになる1938(S13)頃、終末を迎えたのではなかろうか。


