明治の初期、京浜間や阪神間に就航した汽船は、日本に進出した海外商社や、有力な藩、資産家によって運航された。その後、鉄道開通によって需要に変化が生じると、汽船航路は東京湾内外や瀬戸内海沿岸各所に拡がった。瀬戸内海から出た航路は、九州では長崎や大川、鹿児島へと延伸した。
手許にある保存状態の悪い引札。山高五郎氏は『日の丸船隊史話』で「明治6、7年頃のものと思う」と紹介されている。但し、船宿名をはじめ、細部は色々と異なっている。この引札の最遠の就航先は長崎。大阪出港日は「毎月二日、七日、十二日、十七日、廿二日、廿七日」で、「其他度々出船仕候」とある。

九州の就航先の一つになった大川は、大阪商船創業時(1884[M17].05)に設定された「18本線4支線」の内、第二本線(大阪、神戸、馬関、博多、長崎、百貫石、大川)と第一支線(長崎、百貫石、大川)の終着港となっている。大川は筑後川河口左岸の福岡県(筑後)側にあって、久留米藩が外港として整備した港で、若津港と呼ばれる。対岸(右岸)は佐賀県(肥前)にあたり、幕末には三重津に佐賀藩海軍所が置かれた。本ブログに記した久留米藩「千歳丸」や尼崎汽船「大有丸」は、大川と深い縁のある汽船。また、大川は大川運輸のホームポートであり、深川造船所も立地した。
福岡県大川市『おおかわの歴史』によると、大川は物資の集散地として発展し、家具の製造地として名高い。船大工の多く住んだ町であることから、家具製造が盛んになったと言う。市木は「桐」。
大川の街をバイク走行したことがあるが、若津港に小型客船の姿は無く、佐賀線の昇降橋も廃線済みで、通過したのみに終わって仕舞った。
若津港も何点かの絵葉書に記録されるが、背後に山や建物は無く、渺々とした風景の中に汽船は投錨している。
「若津港の景」 大川運輸の汽船はシァラインが太く、良く目立つ。
再び『おおかわの歴史』から、若津港に係る項を引用する。
若津港の繁栄
宝暦元年(1751年)、久留米藩は筑後川の河口に新しい港、若津港を作りました。若津港は米や蝋、菜種油、茶、久留米絣などの積み出し港として、筑後最大の港になっていきました。長崎や大阪の商人は若津港の「大川」とよんでいたそうです。
……(略)……
若津港は河口につくられた河川港で、土砂が河口に堆積したことや、船舶が大型化したことで、船舶の運航に支障をきたすようになりました。政府はオランダ人技師ヨハネス・出・レーケを派遣し、筑後川を調査させました。デ・レーケは何度も現地を視察し、日本人技術者にアドバイスをしました。筑後川改修の立案と設計は石黒五十二を中心に、日本人の技術者がデ・レーケの指導の下に担当しました。このようにして、明治23(1890)年に完成した若津港導流堤は、現在にいたるまで、船舶の航路を確保するための港湾施設として機能しています。
1890(M23)の導流堤完成もあって、物産集散地としての若津港の地歩は高まった。『太湖汽船の50年』から、1891(M24)の「太湖丸」姉妹の登場経過を再掲してみたい。
1891(M24).04 第一太湖丸、大阪難波島において進水
〃 05.25 第一太湖丸、大阪において試運転挙行
〃 06.11 第一太湖丸、九州地方へ航行す
〃 10 第二太湖丸、大阪難波島において進水
〃 11.10 第二太湖丸、大阪において試運転挙行
〃 11.20 第二太湖丸、九州方面へ航行す
上記のとおり、「九州地方へ航行す」とあるが、姉妹は大阪~大川航路に投入された。1891(M24)の『大阪毎日新聞』に掲載された出帆広告の内容は、社史の記録と一致する。
1891(M24)
06.11 - 第一太湖丸 大阪川口、馬関、博多、長崎、百貫、大川行
06.28 - 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
07.07 - 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
07.13午後2時 〃 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、島原、大川行
07.22 - 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
08.02午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
08.13午後3時 〃 大川川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
08.24午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
09.03午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
09.14午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
09.27午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
10.08午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
10.16 - 〃 大阪川口、馬関、仁川行
11.20午後3時 第二太湖丸 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
11.29午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
12.10午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
12.21午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
1892(M25)
01.04午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
01.13午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
01.22午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
02.02午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
02.12午後3時 〃 大阪川口、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
02.19午後3時 〃 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、島原、三角、百貫、大川行
02.22午後3時 〃 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
03.03午後3時 第一太湖丸 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
03.08午後3時 第二太湖丸 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
03.13午後3時 第一太湖丸 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、三角、百貫、大川行
03.18午後3時 第二太湖丸 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、島原、三角、百貫、大川行
03.23午後3時 第一太湖丸 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、島原、三角、百貫、大川行
03.27午後3時 第二太湖丸 大阪川口、門司、馬関、博多、長崎、島原、三角、百貫、大川行
記録中で目立つのは、10月16日の馬関経由仁川行き。この時、「第一太湖丸」は売却目的で仁川へ向かった。空船廻航と思いきや、客・荷扱いをしている。社史の1892(M25).01月の項には、「第一太湖丸朝鮮政府へ売却の目的を以て同国沿岸へ廻航せしも不調に終る」とある。売却は不調に終わったものの、就航4ヶ月にして、また、1ヶ月後に「第二太湖丸」登場を控え、その理由は何だったのか。
新聞記事によると、「第一太湖丸」の売却は「代金の相談不調にて」破談となった。大川航路に復帰するのは、1892(M25).03.03になってから。
先に記した『ふねと私~古い造船家の懐古録~』の著者小野暢三氏は、博多から神戸まで、1894(M27)年3月「第一太湖丸」に乗船した。
日清戦争[1894(M27)~1895(M28)]に際し、「太湖丸」姉妹は1894(M27).11御用船として徴発された。「第二太湖丸」は翌年08.13、「第一太湖丸」は11.14に用船を解かれ、大川航路に復帰した。
1897(M30).06.17、太湖汽船は板谷濱蔵より「金剛丸」([ex Idona] 1053/HGMQ、462G/T、1879.--、独フレンスブルグ)を購入し、「大阪、九州間に就航」させた。貨物・船客とも増加、安定した証左だろう。
1898(M31).05.26、太湖汽船「金剛丸」は、航路を大川から鹿児島へ延伸した。
下関へ向けて鉄路を延ばしてきた山陽鉄道は、1897(M30).09.25徳山に、1898(M31).03.17三田尻に達している。同社は山陽汽船商社を設立し、1898(M31).09.01、用船により徳山~門司~赤間関航路を開設するに至った。
『太湖汽船の50年』によると、1998(M31)に「外海に於ては山陽鉄道と関西同盟汽船と競争のため間接に損失を蒙り」とある。また、同年10月以降は米価急落のため、大川からの米積出は皆無となった。その影響なのか、1900(M33)義和団の乱(北清事変)勃発の際、「第二太湖丸」と「金剛丸」は各一回、貸船として神戸から太沽へ、また、10.20より二ヶ月間、「第一太湖丸」は芝罘を基点に渤海湾にて活躍し、12.23神戸に帰港した。
若松港から境港へ向かった「金剛丸」は、1903(M36).03.10、台風(?)により日ノ御崎沖にて沈没。同年12.17、太湖汽船は\112,250円で「第一太湖丸」「第二太湖丸」を尼崎伊三郎に売却し、原田十次郎より「吉生丸」を¥114,535円で購入した。
「太湖丸」姉妹の新たな船主となった尼崎伊三郎は、1879(M12).03に伊勢湾内航路を開設したものの、競合により1885(M18)に伊勢湾内航路を閉航。航路経営海域を瀬戸内海に転じ、同年03中国航路、同07長崎鹿児島航路、1893(M26)大阪鹿児島航路、1895(M28)大阪若津航路と、次々に新たな航路を開設した。1903(M36).12.17の売却の前後、「太湖丸」姉妹は大阪安治川口を次のとおり出港している。
1903(M36)
12.06 第一太湖丸(太湖汽船)
大阪~(略)~下関、博多、唐津、佐世保、長崎、島原、三角、大川行
12.14 第二太湖丸(太湖汽船)
大阪~(略)~下関、博多、唐津、佐世保、長崎、島原、三角、大川行
12.21 第二太湖丸(尼崎汽船)
大阪~(略)~関門、博多、唐津、呼子、伊万里、平戸、佐世保、長崎、島原、三角、若津行
12.25 第一太湖丸(尼崎汽船)
大阪~(略)~関門、博多、唐津、呼子、伊万里、平戸、佐世保、長崎、島原、三角、若津行
変化は寄港地の増加と、最終港名の名称の変化程度。ほどなく「太湖丸」姉妹は、鹿児島航路や朝鮮半島の鎮南浦や釜山・仁川行にも、充当されるようになる。尼崎汽船の出帆広告を通覧すると、その時々、就航先や海域によって就航船は限定されることが見て取れる。汽船のスペックや経年、堪航性によるのだろう。
1904(M37).01に初代尼崎伊三郎は他界。家督を相続した尼崎徳太郎は、03.01に伊三郎を襲名した。
『明治三十七八年戦役船舶輸送業務提要』によると、1904(M37).02開戦の日露戦争時、「第一太湖丸」「第二太湖丸」姉妹は「中継船」として活躍した。中継船は、次のような働きをした。
六、七百噸以下二百噸以上ノ汽船一、二隻ヲ海外碇泊場司令部ニ専属シ碇泊場司令部所在地ヨリ附近沿岸及戦地各碇泊場司令部相互間ノ交通或ハ測量偵察等ニ使用シ之レヲ中継船ト稱セリ
門司駅から南下する鉄路と、鹿児島駅から北上する鉄路は、1907(M40)の国有化を経て1909(M42)に結ばれ、九州を縦貫する鹿児島本線は全通した。『鹿児島港案内(大正7年版)』は、次のように記録している。
尼崎汽船部の航路を開始したるは明治26年にして大阪、下関、博多、長崎等、西廻り航路として今日に至れる唯一のものにて共進組回漕店(有馬半助)の取扱に属せり。長崎、大川、三角方面各沿岸の航路は明治41年頃迄は頻繁を極めたるも鉄道開通以来交通運輸の移動と共に全く之れを廃止せり。
西廻大阪鹿児島線 尼崎汽船部経営 毎月往復六回
寄港地 三角、長崎、佐世保、博多、門司、下関、三津浜、今治、神戸、大阪
使用船 第一太湖丸(総噸数505)、第二太湖丸(総噸数510)、新敬神丸(総噸数465)、那智丸(総噸数519)
大正から昭和初期頃に配布された、尼崎汽船部の航路図を見てみたい。絵葉書航路図は版を変えて数点ある。折畳式『瀬戸内海航路案内図』は、これまで6点確認されている。その中で、鹿児島港まで航路が延びている鳥瞰航路図は2点。大阪商船の青表紙・赤表紙の鳥瞰航路図のように、航路を色別にした版は美しい。
最初は大正期に配布された絵葉書航路図。この版は大正中期に印刷されている。次の2点は昭和初期の版から、九州のみ拡大する。

葉書サイズの航路図。航路は鹿児島まで延びている。
幾度も記しているが、日露戦争戦勝記念として発行され、大ブレイクした絵葉書は、明治40年代から大正期にかけてが全盛期。特にコロタイプ印刷の絵葉書は史料価値が高く、目を見張るものがある。絵葉書を眺めていると、デジタル化、ペーパーレス化が叫ばれても、最も確実な記録媒体は、やはり紙ではないのか…と、考えてしまう。
鹿児島港の絵葉書に、「第一太湖丸」に似た船影のあることに気がついた。やけに小さく短い煙突。妙なファンネルマークの描き方。船体の中央部にある大きなコンパニオンの形状、そこに端を乗せた操舵室。何度も眺めていた絵葉書の中に…である。もしや?!と、慌てて第一太湖丸の船影を確認した。先ずは「第一太湖丸」絵葉書から細部を見てみたい。

「第一太湖丸」全容。
「第一太湖丸」船首部
「第一太湖丸」中央部
次は、船名を読み取れず、判読不能として区分してきた尼崎汽船部の船影。この船影を見て、「太湖丸」と気付いた。さらにもう一枚見つかった。二枚目には煙突マークが付かない(修正の可能性あり)。何れも鹿児島港における記録である。前者は仕切り線1/2 (1918[T07].04~)、後者は無し。

右は大阪商船「大分丸」。左は大阪商船で不詳。

奥は対馬商船。社史から「第二弘丸」が浮かぶが?
長い間、湖上当時の姿を拡大したような船影を想像し、洋上の太湖丸の姿を探し求めていた。ところが、知らぬ間に、時代の覗き窓たる絵葉書上で、太湖丸に会っていたのではないか?!
この絵葉書は、一体、いつ頃の撮影なのか。手許にある明治・大正・昭和戦前期までの時刻表100余冊から、尼崎汽船部九州方面航路の掲載される号をピックアップし、鹿児島航路の最終航を絞り込んでみた。すると、1930年代後半に鹿児島航路は運航を止めたと判ってきた。尼崎汽船部の大阪~大川航路と大阪~鹿児島航路は、長崎までは重複している。
所蔵の最終掲載号は1922(T11)『汽車汽船ポケット旅行案内1月号』。鹿児島航路休止後の所蔵は1924(T13)『汽車汽船ポケット旅行案内9月号』であった。この間は、新聞の出帆広告から追いかけたところ、1923(T12).04.12大阪安治川口出港の「第二太湖丸」が、尼崎汽船部鹿児島航路の最終航と判った。

1922(T11)『汽車汽船ポケット旅行案内1月号』
大川線と鹿児島線が同時に掲載されている。
九州線として大川航路のみの掲載となる。
1923(T12)の新聞に掲載された出帆広告をチェックしてみた。出港順延はしばしばで、出港の日付は最終の確定日を記す。
1923(T12).01.04 敬神丸 大川
01.08 第一太湖丸 大川
01.12 新敬神丸 大川
01.14 第三敬神丸 鹿児島
01.18 第二太湖丸 大川
01.21 敬神丸 大川
01.24 第一太湖丸 大川
01.28 新敬神丸 鹿児島
01.31 第三敬神丸 大川
02.02 第二太湖丸 大川
02.05 敬神丸 大川
02.07 第一太湖丸 鹿児島
02.11 新敬神丸 大川
02.13 第三敬神丸 大川
02.16 第二太湖丸 大川
02.21 敬神丸 鹿児島
02.24 第三敬神丸 大川
02.26 第一太湖丸 大川
02.28 新敬神丸 大川
03.02 第二太湖丸 鹿児島
03.07 敬神丸 大川
03.09 第三敬神丸 大川
03.11 第一太湖丸 大川
03.14 新敬神丸 鹿児島
03.18 第二太湖丸 大川
03.20 敬神丸 大川
03.24 第一太湖丸 鹿児島
03.28 新敬神丸 大川
03.30 第二太湖丸 大川
04.02 敬神丸 鹿児島
04.06 第三敬神丸 大川 (新敬神丸?)
04.08 第一太湖丸 大川
04.12 第二太湖丸 鹿児島
04.16 敬神丸 大川
04.18 第三敬神丸 大川
04.21 明石丸 大川 (04.22?)
04.24 第一太湖丸 大川
04.26 第二太湖丸 大川
04.29 敬神丸 大川
05.02 第三敬神丸 大川
確認した範囲では、04.12大阪安治川口出港以降、鹿児島航路への配船は無い。この時の配船には紆余曲折があり、「第二太湖丸」は当初(4/08)04.10発大川行であった。しかし(4/09)04.11発に順延され、(4/10)04.11発鹿児島行に変更。(4/11)04.12発鹿児島行と出港日が順延された。大正12年当時の尼崎汽船部九州航路は、こんな悠長なものであった。
折返しの「第二太湖丸」鹿児島発は、鹿児島側の出帆広告から17日午後4時と判った。共進組の扱いである。
手許には、鹿児島行き出帆広告の原本は無く、所蔵の1923(T12).10.28『大阪毎日新聞』の九州行「一心丸」広告をご紹介したい。

1923(T12).10.28『大阪毎日新聞』出帆広告。
先に姿を消したのは「第二太湖丸」であった。1928(S03).03.04午後5時、大川行き第二太湖丸は安治川口を出港した。時刻表はこのとおりで五日目に目的港の大川に到達する。
予定どおり8日午前9時、長崎港を出港し、次寄港地の島原港へ向かう際、島原半島最南端の瀬詰崎沖合は激しい落潮で、前方を横切る小帆船を避けようとしたところ、突然、右舷操舵鎖が船橋中央より7フィートのところで切断。航行不能となり、陸岸に近づくので機関を全速後進にし、投錨するも、午後2時頃、瀬詰崎沖合岩礁に乗揚げ、船底が破損して水船となり、暴風浪によって船体は大破。救助の見込み無きに至った。生涯の殆どを大川航路に就いた第二太湖丸。航跡を閉じたのは、若津港のある有明海入口の岬だった。
一方、「第一太湖丸」の最期は良く判らない。『関西汽船25年の歩み』には、社船の推移として、次のとおり記される。
創立時より終戦まで(戦時下の取得・喪失)
昭和17年5月の創立時に7社より継承した船舶は86隻48,340総㌧であったが、創業直後に3船を返船し、新たに4隻を継承したので差引合計87隻48,618総㌧となった。
関西汽船創立時に出資された当初の86隻に、「第一太湖丸」は含まれる。ところが、「第一太湖丸」は、「厦門丸」「琉球丸」と共に、創業直後に返船された3隻の内の一隻とされる。そして、17.05.10「受渡直前沈没(現金決済)」とある。年表によると、関西汽船の登記完了は17.05.04、営業開始は05.11。帳簿上では関西汽船→尼崎汽船へ返船されたが、実際は受渡直前に沈没し、船価と記される55,080円が、関西汽船側から尼崎汽船へ現金決済されたということか。船舶原簿をあたったという『戦時日本船名録』は、「第一太湖丸」の最期を所有者:尼崎汽船部、「42.05.10沈?」と記録している。
琵琶湖に登場した鉄船「太湖丸」姉妹は、鉄道連絡船として新造された、初めての汽船であった。しかし、航洋汽船に再組立される際、切り接ぎで船体を延長・大型化した訳ではなかった。湖上と洋上では船歴は引き継がれず、「同一船名を付された別船」として、難波島で「新造」された。
長い間、姉妹の再組立の経緯や船影に、妄想に近い想像をめぐらせてきた。その頃より一歩、「太湖丸」姉妹の真相に近付けたのではないか。時代の覗き窓たる絵葉書上で、それとは知らず、ぼくは太湖丸に会っていた…と考えている。






