波浮港と聞くと、野口雨情作詞、中山晋平作曲「波浮の港」が頭に浮かぶ。1928(S03).05に佐藤千夜子、二ヶ月後に藤原義江が歌い、創立間もない日本ビクターは大ヒットを記録した。
東京湾汽船が東京から大島・下田へ、日航の観光便運航を開始したのは、レコード発売直前の4月1日。偶然と言うには出来過ぎているが、偶然の所産。
「波浮の港」に歌われる風景の中には、島の娘と共に汽船の姿がある。当時発行された多くの絵葉書セットには、必ず波浮港の風景があり、そこには汽船が撮し込まれている。

この東京湾汽船のチラシは、1929(S04).01改正ダイヤと共に、「波浮の港」の歌詞が刷られている。日航便開始から9ヶ月後のもの。歌詞の四番を掲げさせていただきたい。
風は潮風
御神火颪(おろし)
島の娘達や
出船のときにや
船の纜(ともづな)
ヤレホンニサ泣いて解く


ダイヤ改正が行われ、このチラシの配布された1928(S03).01は、宣伝に注力した観光航路(東京~大島~下田)に「櫻丸」「橘丸」を配船し、三菱神戸において、「菊丸」を起工する直前にあたる。
第一次大戦後の景気低迷に被さるように関東大震災が発生し、どん底の不況の中で、東京湾汽船の経営権を握っていた東京渡辺銀行は破綻。東京湾汽船は経営陣交替を余儀なくされた。新たな経営陣の打ち出した「客主貨従」方針は、東京湾汽船の起死回生をかけたものであった。同社は虎の子「櫻丸」「橘丸」を純客船に改装、白塗装化し、東京から大島・下田を結ぶ日航(毎日就航)の観光船に仕立てた。初便は、1928(S03).04.01午前8時に霊岸島を出港した「橘丸」であった。
報道によると当日は薄曇りで、小雨交じりの風が吹く、生憎の空模様。「橘丸」は午後2時過ぎに大島元村沖に到着した。「海岸には『祝日航』のアーチが設けられ小學生や青年團が國旗を振って歓迎した」とある。これが現在につながる大島日航便の、開始初日の様子である。
早速、04.10にダイヤ改正を実施し、土曜夜に東京を発つ、週一便の夜行観光便も増発した。この増発は、攝陽商船「松島丸」を用船し、三隻体制とすることで可能になった。この後、「菊丸」登場までの観光航路の改変は、過去に「観光航路への転換」2018-10-29、「松島丸のこと」2018-06-10として記した。
「客主貨従」方針への変更以降、大島に就航した汽船は、観光便ばかりではなかった。東京湾汽船の大島航路は、相陽汽船の東京~伊東~大島航路を1905(M38)10.09に買収し、翌年04.15に伊東から大島へ延航したことに始まる。1907(M40).05.25には「伊豆諸島定期航海契約書」を東京府と締結した。
『海事摘要』(M41版)の「命令航路調」によると、東京府による「伊豆諸島航路」の受命者は「東京湾汽船」。命令期間は「M40年6月ニ始リ43年3月ニ終ル」とある。「線路ニ供スル船舶発航及寄港地」は、次のとおり。
総噸数百噸以上ノ汽船一艘ヲ用フ而シテ其発航等ハ左ノ如シ但大島線ハ総噸数八十噸以上ノ汽船ヲ用フルコトヲ得
御蔵島線
東京ヨリ御蔵島ニ毎月一回一年十二回発船シ往復トモ大島、利島、新島、神津島及三宅島ニ寄港ス但利島ハ往航又ハ復航ノ寄港ヲ一回省クコトヲ得
三宅島線
下田ヨリ三宅島ニ一年六回発船シ往航新島ニ復航式根島及新島ニ寄港ス
大島線
東京ヨリ大島ニ毎月二回一年二十四回発船ス
大島には「大島線」の他に御蔵島線も寄港したと判る。東京府と締結した契約書のほか、同日付で各島代表とも協定を交わし、大島については年間寄港回数96回以上と定められたという。
この命令航路の内容は、数年毎に契約更新(改定)されている。昭和初期における命令期間は「T15年4月ニ始リ同18年3月ニ終ル」。改元しているのでT18は1929(S04)。
観光船の日航開始と、『波浮の港』大ヒットの重なった翌年の1929(S04)04.01、東京湾汽船は貨客船を用いた波浮港日航便も開始した。従来からの三宅島線や神津島線を存続させたうえの、波浮港日航便開始であった。

波浮港に汽船二隻が同時入港している光景は、大島線の汽船と、利島以南へ就航した汽船が輻輳した、その様子を写したものであろう。初めてその絵葉書を目にした時、船名を知りたいと強く念じたが、不鮮明で読み取れず、また、『東海汽船80年のあゆみ』に小型汽船の写真掲載は無く、船名を知る手掛かりは全く無かった。
本ブログで、2013-01-28に「月島工場の貨客船」、2016-05-15に「自社建造は13隻」を記した。その後、2019年に東海汽船は創立130周年を迎え、待望の社史『東海汽船130年のあゆみ』が刊行された。社史には、不明だったり、詳らかでなかった事柄も多く記載され、自社建造13隻の一覧表も添えられた。さらに、月島工場と月島造船所の名称変化も明らかにされた(以下、「自社工場」という)。
13隻の内訳は、曳船「明石丸」(4番船)、浅吃水外輪船「愉快丸」(6番船)を除き、1番船「房総丸」から8番船「芙蓉丸(初代)」まで6隻は純客船型、9番船「高砂丸(初代)」から13番船「相模丸」まで5隻は貨客船型を建造した。各記録を突き合わせると、純客船型は東京湾内や三陸沿岸航路に投入され、貨客船型は北部伊豆諸島航路や伊豆半島西岸航路に使用されたと判った。
「波浮の港」の大ヒットした頃、大島を主とし、北部伊豆諸島航路に就航した主力汽船は、東京湾汽船が1907(M40).5.25、東京府と締結した「伊豆諸島定期航海契約書」を遂行するため、自社工場で建造した汽船たちであった。
絵葉書に記録された船影を分類すると、5類型されると判ってきた。貨客船型5隻[高砂丸、大正丸、三宅丸、静岡丸、相模丸](以下、「五隻組」という)の、一隻毎の特徴も見えてきた。三宅島・八丈島航路に活躍した「ふりいじあ丸」の大改造のように、当時の汽船も、デビウ当初と末期では、姿を変えていることだろう。改造されたことを前提に、船名は探らねばならない。判るようで判らない五隻組の船名特定に、長い間悩まされた。
月島工場建造の貨客船型五隻組を一覧にすると次のとおり。

調査も行き詰まりを見せた頃、大島出身のU氏から「いま上京中なので、船のお話をしませんか」との、お誘いのお電話を頂戴した。氏は1922(T11)年の大島生まれ。長らく行政職にあり、最後は地域のリーダーとして活躍された。一方でこよなく船を愛し、生活と共にあった東京湾汽船~東海汽船の話には熱がこもる。昭和初期より、興味をもって眺め続けた汽船に係る証言は、貴重かつ重要である。
五隻組の船影を特定するうえで、U氏の証言は決め手となった。
1.高砂丸にはマストが二本あったこと。
2.高砂丸と大正丸は同型であったが、三宅丸は少し違っていたこと。
3.大正丸と祝丸は、ポールド周辺の外板が黄色く塗られていたこと。
4.大ノ浦丸には、ポールドの周囲に枠があったこと。
5.観光のピーク時に葵丸は登場し、橘丸登場時には下降気味であったこと。
6.芙蓉丸(2代)で学徒出陣されたこと。などなど。
手始めに、船名の読み取れる五隻組の画像を見てみよう。
これは深川越中島の糧秣廠を背景に、隅田川派川の分流する地点で捉えられた、鮮明な「高砂丸」の画像。汽船は霊岸島の待合所前に接岸せず、ここに投錨し、乗船客は艀で乗船した。大正から昭和初期にかけての旅行記には、しばしば、その時の様子が記される。この画像では、船首で揚錨作業が行われている。ハンドレールの下位に、2個設けられたポールドの位置は鮮明である。


館山で記録された「三宅丸」。この船影は、新造間もない頃とみられる。船名の漢字が5文字に見えるのは、船名と共に船籍港が書かれているため。右側より「下田三宅丸」とある。時折、このような例を見掛ける。ただし、船籍港はアルファベット表記されていない。この画像から判る特徴は、操舵室下部の船楼部にあるポールドと、船体の第二甲板のポールドが上下に一致すること。第二甲板のポールドは、1個しか見えないが、伝馬船上の貨物?人物?によって、隠れているようだ。後ほど、別な画像も掲げるが、上下に一致することが特徴である。

下田で記録されたこの汽船の船名は、アルファベットの文字数から、「静岡丸」ではなく「相模丸」と読める。アルファベットは潰れているが、「MARU」は必ず4文字で、この4文字はスケールとなり得る。「SAGAMI MARU」「SHIZUOKA MARU」と並べると、文字数違いによる船名判読が可能。裏付けとなる、両船の決定的な違いを後にお示しする。
五隻組の中でも、船容の似た「高砂丸」「大正丸」「三宅丸」の特定は、特に難しかった。ただ、特徴を理解すると、判別は容易である。最大のポイントとなったのはU氏の証言。後部にマストのあった船が「高砂丸」である。また、「高砂丸」と「大正丸」は同型で、「三宅丸」は少し違っていたという点。
3隻の特徴を図解すると、このようになる。

「高砂丸」15264/MBDL、161G/T、木、1912(M45).07、自社建造。

マストが二本あり、先の2点は「高砂丸」と特定可能である。3点目は後部マストが無い。
特徴を挙げてみよう。まず、煙突前部に細いパイプが付くが、これは蒸気の力を利用した汽笛(スチーム・ホイッスル)で、「高砂丸」の場合、煙突頂部まで達していない。この点は、後部マストと共に「高砂丸」を決定付ける。
「高砂丸」と次の「大正丸」は、船首部のハンドレール部下位にポールドが2個ある。「三宅丸」は1個しかない。逆に、操舵室下部の船体部第二甲板には、「高砂丸」と「大正丸」はポールド1個、「三宅丸」は2個ある。船尾部のコンパニオンの前後が直立しているのも「高砂丸」の特徴である。
「大正丸」16315/MHLB、174G/T、木、1913(T02).05、自社建造。
ポールドの位置が「高砂丸」と全く同じである。U氏は、この点から「同型」と証言された考えられる。ただし、「高砂丸」の特徴とした煙突前部のパイプの長さや、船尾部のコンパニオンの外板形状など、細部が異なっている。
『船舶明細書』の記載で、「高砂丸」と「三宅丸」の相違は、暗車数の違い。単暗車船と双暗車船は、カウンタースタンの小型船の判定にとても役立つ。単暗車の場合、船足が軽いと、反対側の水面が見通せる。双暗車の場合、船尾に舵軸が付くため、反対側は見えない。この点から「高砂丸」と「三宅丸」を見比べると、両船の違いは明確になる。後の改造とみられるが、船尾のコンパニオン部分外板の前後にR(アール=カーブ)を描く。「高砂丸」と同様、前部ハンドレール部下位のポールドは2個。
「三宅丸」17034/MLNK、185G/T、木、1914(T03).03、自社建造。
U氏が「高砂丸」「大正丸」とは、船型が異なっていたと証言された船。
一見しての違いは、船尾のコンパニオン部分外板が大きく、前部の処理は直立、後部のみR(アール=カーブ)が付く点。
前述2隻とは、ポールドの位置が異なっている。特に、操舵室下部の船体部第二甲板にはポールドが2個並び、船楼部分の丸窓と、ほぼ上下一致することが特徴となっている。また、前部のハンドレール部にはポールドは1個しか無い。この船は単暗車であり、反対側水面が透けて見える画像が多い。
また、後部通路上部に付けられた、外板枠の巾も太い。大島元村沖合に、白塗装となった「橘丸」と並んで錨泊する「三宅丸」の船影は、これらの特徴を明確に捉えている。
「相模丸」17749/MQNP、179G/T、木、1914(T03).11、自社建造。

操舵室下部の両弦に、開放型の通路が設けられ、とても堂々とした姿をしている。
アルファベット数で「相模丸」と船名を絞り込んだと記したが、決定的な裏付けは、この汽船は双暗車船であり、船尾において、反対舷側の水面が見える画像は無い。
どうしたわけか、開口部数は両舷で異なり、右舷5個、左舷6個となっている。
「静岡丸」18463/MTSJ、194G/T、木、1915(T04).09、自社建造。

自社工場建造の最後の汽船。操舵室下部の開放型通路は、両舷とも開口部は3個。残された画像は、単暗車船の特徴を示している。「静岡丸」と「相模丸」の特徴は明確である。
これで、大方の絵葉書の船名特定は可能である。
さて、最後に複数隻が同時に撮影された絵葉書から。

波浮港の桟橋に着桟する二隻の小型汽船。波浮港日航便の開始された昭和4年4月以降の撮影と見られる。
右側の汽船は後部にマストが見えることから「高砂丸」と特定可能。
左側の、まさに着桟しようとしている汽船は、操舵室下部の船体に丸窓が2個見える。この船は「三宅丸」と特定される。

キャプションに「貨物運搬ノ実況」とある新島の絵葉書。
沖合に4隻の小型汽船が集結した、壮観な光景。最初に特定できたのは、右端の「豆州丸」であった。この汽船については、2012-06-10に「我入道の義魂碑」として記した。
最も左側の船影は「高砂丸」。ただし、この当時は後部マストが無い。「高砂丸」と特定したのは、船首のハンドレール部下位にポールド2個が見えることと、煙突上部の汽笛管が短い点。
中央の汽船は「三宅丸」。操舵室下方の船体にポールドが2個あり、船首のハンドレール部にはポールド1個という、「三宅丸」の特徴を確認できる。「三宅丸」に重なるように碇泊している汽船は、はっきりしない。
巷に「波浮の港」が流れた頃、観光客向けに発行された多くの絵葉書セット。そして、撮しこまれた汽船たち。船名が判ると、当時の情景は、さらに生き生きと見えてくる。多くの文人墨客が残した作品には、それら汽船の船名もちりばめられている。しばしのタイムトラベルを楽しもう。
船好きの大先輩U氏は、2023年5月にご逝去されました。享年101歳。昭和初期の汽船の話は、もう、伺うことができません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。













