東京と神戸を結ぶ官設鉄道は、1889(M22).07.01全線開業した。最後の開通区間は、所謂「湖東線」の区間。東は伊吹山の南方に設けられた分岐点(後の深谷[フカタニ]駅)と、西は馬場駅(現:膳所駅)の69.64 kmの区間。東西分け目の関ヶ原界隈は、勾配が厳しい故、明治期において鉄道は数度のルート変更が行われた。現在、1889(M22)に設けられた分岐点に鉄路は無く、国道365号線と滋賀県道244号線の大野木交差点となっている。

鉄船「太湖丸」の湖上当時の時刻表は、名刺サイズの厚手の紙に焼付された鶏卵写真。連絡船の出港時刻は、大津港出港しか記されていない。佐々木義郎『琵琶湖の鉄道連絡船と郵便逓送』と照合したところ、1884(M17)年11月の時刻に一致した。あらためて、『太湖汽船の50年』から、琵琶湖当時を振り返ってみたい。
1882(M15).05.01 資本金50万円をもって太湖汽船創立
1883(M16).09 第一、第二太湖丸竣工
1884(M17).05.15 神戸、三宮、大阪、京都、敦賀、金ケ崎、柳ヶ瀬、関ヶ原、大垣と船車連絡
切符発売
(本文に「茲に始めて湖上長浜・大津間鉄道連絡船開始せらる」とある)
1885(M18) 大津、長浜両桟橋竣工
1889(M22) 湖東線全通以来業況一変する
(本文に「湖上鉄道連絡船は、其間僅に五ヶ年余」とある。起算はM17か)
1890(M23) 昨年来大津に係留の第一、第二太湖丸解体。大阪搬出、組立に着手
この経過で良く判らないのは、鉄船「太湖丸」姉妹は、いつから鉄道連絡船として就航し、当初の目的を果たしたのかという点。1885(M18).05.27付大阪朝日新聞には「汽車連絡に供する爲に曩に二艘の鉄船を建造せしも長浜港の浅くして発着に差支ゆるより久しく其航回を見合せ居たりしが今度右港湾の堀浚も竣功せしにつき廿日より鉄船第二太湖丸を以て定期航回に宛て日々運航する」「同船は一時間十二海里余を馳する速力にて長浜大津間を二時間半たらずに航行する」「従前の木製汽船よりは一時間余も早し」と報じている。
『太湖汽船の50年』本文では、明確な時期を示さないものの、「ここに於て鉄道局は之が連絡設備を整へんがため、大津港並に長浜港の浚渫を始め防波堤の築造、桟橋の架設等其設備を完備せり」と記している。鉄船「太湖丸」姉妹の運航は、1885(M18).05.20からだったのか。竣工後、2年近くも係船されていたと云うことか。
山本熙『日本鉄道連絡船史』(S23刊)は、「鉄道と太湖汽船会社間に連帯運輸契約をなし、翌15年5月1日から、大津・長浜間(35浬)に連絡業務を開始した。これが鉄道連絡の濫觴である」とし、太湖汽船創立日を鉄道連絡船運航開始日としている。ただ、当初から鉄船「太湖丸」姉妹が就航したかどうか、言及していない。
鉄道連絡船の就航を、1882(M15).05の太湖汽船創立以降とするか、1883(M16).09鉄船「太湖丸」姉妹竣工をもってするか、1884(M17).05連絡切符発売開始とするか、はたまた1885(M18).05の桟橋及び浚渫竣工時とするのか、いまひとつはっきりしない。運航開始時期は、「鉄道連絡船」≠「鉄船太湖丸姉妹」であることは、確かなようだ。鉄船「太湖丸」姉妹に冠せられた「最初の鉄道連絡船」というレッテルは、余りに重い。
とは言え、太湖汽船創立前から、藤田組(藤田伝三郎)の発注によって建造が進められた「第一太湖丸」「第二太湖丸」姉妹は、鉄道連絡を目的に新造された最初の汽船であったことは、揺るぎない。湖上で使用するには過大であり、湖東線の開通で係船された姉妹は、1890(M23)に解体され、大阪木津川の難波島に運び出された。
『工学会誌第百四巻』(1890[M23].08)には、「第壱及第二太湖丸」として次の記事がある。
明治十五六年ノ頃ヨリ今日ニ至ル迄余リ用立タル事モナク数年ノ間空シク滋賀ノ浦浪ニ漂ヘ居リタル鉄船第壱及第二太湖丸モ近頃再タヒ船体ヲ解放シ四個ノ機関ヲ取外シ四艘ノ鉄船ニ改造シ内海ニ浮フルノ目論見ニテ既ニ其解放ニ着手セリ右改造方ハ我工学会員佐山芳太郎氏ガ一切三万円余ニテ引受ケタリ
この記事からも、琵琶湖上での華々しい活躍は、伝わってこない。
鉄船「太湖丸」姉妹の再生は、佐山芳太郎が請け負った。佐山芳太郎もまた、興味深い人物である。幕末の1854(嘉永7)年、津波により下田港で大破したロシア軍艦「ディアナ号」は、修復のために戸田港へ向かう途中で沈没。そのため、乗組員帰国のための洋式帆船が、ロシア人指導のもと、日本人船大工により戸田村で建造された。我が国最初の洋式船建造は、その後の造船技術の礎となった。その間、プチャーチン提督は幕府と日露和親条約を締結し、完成した「ヘダ号」に乗船して帰国した。
戸田村教育委員会『ヘダ号の建造』によると、佐山芳太郎は、造船世話掛を勤めた七人の船匠の一人、佐山太郎兵衛の甥にあたる。佐山芳太郎が工部省九等技手として任官されたのは1880(M13)と見られ、工部省兵庫工作分局に所属した。『船名録』に造船工長として佐山の名が最初に見えるのは、同所で建造された共栄社「第二徳山丸」。この汽船は、最後は東京湾汽船の所有となった。画像もあり、「兵庫造船局の造った船」として、本ブログに記してあるので、ご覧頂けたら幸いである。

佐山は工部省在籍のまま、大阪鉄工所に派遣された。同所において、造船工長として鉄船「共立丸」建造に携わった。『日立造船株式会社七十年史』は「邦人技術者の入所」として、次のとおり記している。
両氏(コードル氏及びジェームズ・エラートン氏)が去ったあとへ、(1885[M18]年)兵庫造船局(もとの兵庫工作分局)に勤務していた佐山芳太郎氏が造船主任として招かれた。当時の記録によると「大阪鉄工所願出につき佐山芳太郎を三個年間貸渡云々」とある。これによっても当時いかに有能な技術家が乏しかったかを知ることができよう。また佐山氏と前後して兵庫蔵選挙区にあった工学士家入安氏が機関主任として招かれた。二十一年七月には佐山氏のあとを受けて林寛次郎氏が造船主任に、家入安氏に代って宮浦菊太郎氏が造船主任に任命された。
…(略)…佐山芳太郎氏をはじめ、(略)…みな実地から鍛えあげられた優れた技術者であった。
兵庫造船所は1885(M18).12に工部省から農商務省へ所管換された。不振であった同所は、1886(M19).05に川崎正蔵が借受け、翌1887(M20).07に払い下げられた。川崎正蔵は、ここに東京(築地)及び兵庫(東出町)の両造船所を移し、「川崎造船所」と改称した。佐山が大阪鉄工所を退いた1888(M21).07には、出身の工部省兵庫造船所は、無くなっていたのである。
退官後の佐山芳太郎の名が、造船工長として最初に見えるのは、木津川左岸の材木置場で建造した松城長「駿豆丸」。月正島界隈は、古くから船大工の多く住む地域であった。
この汽船は、『船名録(M26版)』では房州の資産家、神田吉右衛門の所有。正木貞蔵の進める安房汽船(第三安房汽船)計画の一環として、神田名義となったもの。「駿豆丸」は後に尾崎房太郎所有となり、京房汽船の主要船として、霊岸島~房州航路に就航した。
次に建造したのは「第一太湖丸」「第二太湖丸」姉妹。佐山は大阪鉄工所において、鉄船「共立丸」建造に携わり、鉄船建造のノウハウを習得したと見られる。湖上と海上と、同じ船名を命名されたことから、鉄船「太湖丸」姉妹に興味を持って以来、同一船型に再組立されたと考えていた。
『工学会誌第百四巻』の記事は、機関を流用し、四隻の鉄船を再組立すると読める。実際は二隻に再生されたが、一体、どのような汽船に仕上がったのか。長い間の疑問であった。
「第一太湖丸」は1942(S17)に沈没、「第二太湖丸」は1928(S02)に遭難するまで、共に長命を保ったのに、なぜ、絵葉書になったり、安治川口で捉えられたり、しなかったのだろう。両船の船影を一目見たいと、長い間念じていた。
小野暢三『ふねと私~古い造船家の懐古録~』には、1894(M27)年に小野氏が東京へ向かう際、博多から神戸まで「第一太湖丸」に乗船し、「この船はほとんど同型といってもよいほど信濃川丸と似ていた」と記されていた。絵葉書の出現までは、小野氏の記録しか船型に関する記録は見当たらなかった。技術家小野氏の証言には、注目しなければならない。

「信濃川丸」1255/HJKC、707G/T、1891(M24).03、三菱造船所(長崎)。[M40版]

「第一太湖丸」1246/HJGN、516G/T、1891(M24).04、佐山芳太郎(大阪)。[M40版]
「第一太湖丸」の出現は、存在しないと考えていた絵葉書出現以上に、想像していた船容と異なる船影であったことに、何より驚かされた。前後に停泊船が見え、船の背後には山の斜面が写っている。長崎か、下関だろう。
目を引いた部位は、中央部に見える半割れカマボコ状の甲板室前部に、操舵室の端が架かっている点や、短く小さな煙突であった。煙突マークの描き方も特徴的である。目に焼き付いていた湖上の絵画からは、俄に信じがたい船容であった。
船影が判ったことにより、『工学会誌第百四巻』のとおり、佐山芳太郎は「同一船型の船の再組立を目指さなかった」と考えた。
難波島で行われた再組立時、解体船の船材のみをもって、長、幅、深とも、何れも大きくなる船に再生するのは、不可能だろう。解体損耗分を含め、新たな資材(鉄材)の調達は、かなりのボリュームに及んだと思われる。
二隻の違いを実感するため、画像を加工し、二隻の寸法を揃えてみたのがこの画像である。全く別船である。ただ、若干低く見えるが、煙突は再利用しているように見える。

船名録の長さは、一貫して登録の長さ(Lr)である。測度のルールは変化しても、Lppとは表記しない。船名録を使用する際、「凡例頁」を別冊に綴じると便利。尺(カネ尺)から呎(フィート)、米(メートル)への変化、付された×印や○印など、切替り時期を通しで確認できる。『船名録』の「M23年版」と「M26年版」から、「第一太湖丸」と「第二太湖丸」の再組立前後の、数値の変化を見てみたい。なお、『船名録』は、記載の数値未満は切り捨てされる。
琵琶湖に在った当時の『船名録(M23版)』と、難波島で再組立後の『同(M26版)』を比較すると、長では約7m、長くなっている。この当時の船名録の数値は「尺(カネ尺)」で記載され、「呎(フィート)」ではない。船名は同じであり、部材を流用しながらも、全く別船に再組立されたようだ。
進水から就航までを『太湖汽船の50年』から見てみよう。
1891(M24).04 第一太湖丸大阪難波島において進水
〃 05.25 第一太湖丸、大阪において試運転挙行
〃 06.11 第一太湖丸九州地方へ航行す
〃 10 第二太湖丸大阪難波島において進水
〃 11.10 第二太湖丸大阪において試運転挙行
〃 11.20 第二太湖丸九州方面へ航行す
このように、姉妹は難波島から海へ旅立った。ただ、難波島のどこで組み立てられたか、判らない。斜路の確保される川辺だったろう。余談だが、尼崎伊三郎に買収されてからは、新炭屋町の尼崎造船所に来航していたと思われる。有名な木造船渠に入渠中の「電信丸」の写真は、『船舶』誌掲載の上野喜一郎氏の記事によると、氏自ら、1933(S08)に尼崎造船所で撮影されたもの。あの木造船渠は、尼崎造船所だった。