音楽でも聴きながらご覧下さい。

おはようございます鉄太郎です。


昨日の我が熊本は午前中は晴れ、夕刻から雲が多くなりました。


私は来週は月曜日に有給休暇を取りますので本日から3連休となります。

また、洗濯してチョイとだけ掃除して空き缶や空きペットボトルを片付けします。空き瓶もですかね。

さて、本日はお弁当のお話しでもいたしましょう。

弁当は時代とともにどのように変化してきたのか、その歴史についてチョイとだけお話しいたしましょう。

携帯食すべてを弁当として考えると、平安時代にまで遡ります。

当時、「屯食(とんじき)」と呼ばれる、携帯食としてのおにぎりがあったほか、「干し飯(ほしいい)」と呼ばれる調理済みの乾燥米も普及しました。

これらは小さな入れ物に保管、持ち運びされたことから、現在の弁当のルーツと言えます。

鎌倉時代には、戦用に鰹節を添えた携帯ごはんも活用されていました。


それまで携帯食は笹や竹などの皮に包んでいましたが、弁当箱という形態が生まれたのもこの頃です。

漆器など箱型の入れ物に食事を入れ、花見や茶会などの場で食べるようになりました。

弁当という言葉が生まれたのは織田信長の逸話で、安土城でたくさんの人に食事を振る舞う際、「めいめいに配る簡単な食事」という意味で「弁当」という言葉を使ったとのことです。

江戸時代初期に編集された、ポルトガル語の『日葡辞書』には、「bento」が弁当箱の説明で記載されています。

すなわち、「引出しつきの文具箱に似た箱で、中に食物をいれて携行するもの」。

大名など特権階級が花見、紅葉狩りなどの場で食べるものでしたが、次第に庶民の間でも携帯食をすべて弁当と呼ぶようになりました。

さらに、庶民にも観光と巡礼を兼ねた旅行に出かけたり、花見をしたりする習慣が根付いたことから、だんだんと弁当の文化も定着していきました。

五街道の整備に伴い人々の移動が盛んになったことも弁当を発展させ、宿屋の弁当、歌舞伎や芝居見物の文化とも結びつきました。

歌舞伎や芝居見物の合間に弁当を食べた文化から「幕の内弁当」が生まれたとする説が強いです。

出勤の際に持っていく弁当は、江戸時代から続く「腰弁当」で、腰に弁当をぶら下げて持つというものでした。

今からすると不思議ですが、当時は当たり前の光景だったのです。

外食産業はまだまだ未発達であり、学校にも給食制度がなかったので、小学生から大学生まで皆、弁当を持って学校に通っていました。

鉄道の敷設により、初めて「駅弁」が販売されたのも明治時代です。どこで販売された駅弁が初なのかには諸説ありますが、一説には1885年、大宮〜宇都宮間が開通した際、宇都宮のとある旅館が駅で弁当を売り始めたのが最初の駅弁とされています。

当時の駅弁は非常にシンプルで、おにぎり2個とたくあん2切れのみで、5銭というものでした。

ごはんを主食としたお弁当だけでなく、サンドイッチが入った洋風弁当が登場したのも明治時代です。


昭和時代に工業が発展すると、アルミニウムをアルマイト加工した弁当箱が多く開発され、メンテナンスが簡便だったことから広く普及しました。

1970年代に入ると鉄道で観光旅行に出かける人が増え、各地の素材や郷土料理を活かした弁当が多く生まれました。

同時にジャー式、魔法瓶式などの保温弁当容器も開発され、販売されたことから、学校や職場に弁当を持参しても温かいものが食べられるようになったのです。

持ち帰り弁当専門店が登場したのも1970年代です。

さらに時代が下ってコンビニエンスストアが広まると、コンビニ弁当が一般に普及しました。コンビニエンスストアでは店内に置かれた電子レンジを使って、買った直後に温められることから人気となりました。

今はスーパーでも凡ゆる弁当系がありますね。

本日は土曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごして行きましょう。

本日も皆様に少しの幸せが届くよう心よりお祈りいたしております。

鉄太郎。

本日もブロ友さんの写真をお借りいたしております。