おはようございます鉄太郎です。
さて、本日は相撲の双葉山のお話です。
双葉山の本名は龝吉定次(あきよし さだじ)1912年、大分県宇佐郡天津村(現在の宇佐市)の生まれだ。
実家は海運業を営んだが双葉山が5歳の時に右目に吹矢で負傷。それからは、やや不自由な右目だったらしい。
そして、双葉山を研究した浪曲によると海運業を手伝ったときに、錨を巻き上げる際に右小指も負傷したらしい。
海運業を営んだが父親だが事業に失敗。(負債総額は現在になおすと2億5千万らしい)
少年時代の定次は勉学も優秀だったらしい。
1927年大分県警、双川さんという人が相撲の実力があると、現在の立浪部屋に入門。
5せ
そして、1932年春場所7日目の「うっちゃり」で勝利してから連勝街道がはじまった。
右四つからの上手投げは無類の強さを誇り、年の初場所まで前人未到の69連勝を記録した。
幕内276勝68敗1分33休1920年11月引退、年寄時津風を襲名。 1932年には日本相撲協会理事長に就任し、戦後の角界の復興、改革に尽力した。
その後、順調に大関・1938年初場所で横綱となり、1939年前初場所の4日目に安藝ノ海(あきのうみ)の「外掛け」に敗れるまで69連勝で終焉した。
約丸3年間の不敗記録は未だ破られていない。
しかし、ここからが深い話しだ。双葉山は黒星にも動じることなく、いつもの通りに土俵に一礼をして支度部屋に帰ったという。
敗れたのち師と仰ぐ思想家の安岡正篤に双葉山は電報を打つ。電文は...。
「我未だ木鶏たりえず(われいまだ、もっけいたりえず)」
1939年前初場所の4日目に安藝ノ海(あきのうみ)の「外掛け」に敗れるまで69連勝で終焉した。
「我未だ木鶏たりえず(われいまだ、もっけいたりえず)」
木鶏とは木彫りの鳥のように何事にも動じない、闘鶏における最強の鶏をいう。
これは荘子の故事、転じて「道を体得した人物は他者に惑わされることなく、鎮座しているだけで衆人の範となると伝えられている。
つまり双葉山は、この前人未到の大記録でも自己研鑽の足りなさを自省したのである。
双葉山のことばで名言がある。「追い越そうとする努力より、追い越されまいとする努力のほうが、はるかにむずかしい」と。
本日は水曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごして行きましょう。
本日も皆様に少しの幸せが訪れることを心よりお祈り致しております。
鉄太郎。