音楽でも聴きながらご覧下さい。

おはようございます鉄太郎です。


昨日の我が熊本は曇り空でしたが、夕刻から雨がふりました。予報では雨はなかった。


私は洗濯し、乾燥機にかけ終了。夕食はスーパーで購入してビールとおにぎりを食べましま。


しかし、昨日は暑くて半袖姿にてスーパーへ出かけた。

本日は我が熊本の英雄...と言っても知る人が少ないが「日野熊蔵」のお話を致しましょう。

12月19日は「日本初飛行の日」である。日本人が初めて空を飛んだ日で、明治43年(1910年)のことだ。

日野熊蔵は、このとき空を飛んだパイロットの一人である。そして、12月19日の5日前12月14日、飛行にも成功した人物でもある。

当時、陸軍が飛行機の研究をしていた。それに参加していたのが、日野熊蔵と、徳川好敏である。

徳川を名乗るからにはそれなりの身分であり、事実彼は御三卿の清水徳川家の嫡男であった。

明治新政府は徳川家を屈服させはしたが、それでもお家のご威光がなかったわけではない。ここに、日本人初飛行のカラクリがある。

日野熊蔵と徳川好敏の二人は欧州に派遣され、日野はドイツで徳川はフランスで航空機の操縦技術をまなび、それぞれの国の飛行機を購入して帰国した。

そして、代々木練兵場(現在の代々木公園あたり)で滑走試験を行っていた。

12月14日、日野熊蔵は約60メートルの飛行に成功した。だが、軍の見解は「試験飛行中に、偶然飛んでしまっただけ」。

つまり、試験飛行ではないとしたのである。12月15日には徳川好敏も一緒に飛行試行をしたが、徳川は失敗したのに対して日野熊蔵は成功する。

だが、ここでも陸軍は飛行とは認めなかった。そして、12月19日想像はついているだろうが、日野熊蔵と徳川好敏の両名が試験飛行に成功。ここで初めて、陸軍は「成功した」とコメントしたという。

この一連のエピソードから、徳川家の血筋に「日本初飛行」の栄誉を与えたいという意向が陸軍にあったと考えられている。

だが、日野の初飛行した12月14日、真っ先に駆け寄って喜んだのは徳川好敏であったという。

身分などは関係なく、目標を同じくする者の成功に歓喜した徳川好敏の目に、陸軍のやり方はどのように映ったのだろうか?

【日野熊蔵は熊本県人吉市出身だが、初飛行を成功させさらに飛行研究に熱心になり、飛行機を自作している。一連の研究に私財をつぎ込み多額の借財を作り訴訟されたり、来訪された皇族を出迎えないこともあり、陸軍から左遷された。】


本日は私の尊敬するサッカー元日本代表監督のオシムさんの語録を記述しましょう。

「ピッチの上で起きていること。それが私の能力です」

前置きや言い訳はいらない。自分の仕事に胸を張ろう。

サッカー監督という職業を端的かつ的確に捉えたオシムさんらしい言葉です。
ファンが何と言おうと、マスコミにどう批判されようと、ピッチの上で良い試合と結果を出しさえすれば、監督というのは勤まる。

反対に言えば、ピッチ上で結果が残せなければ、どんなに人々から慕われようとも監督には不適任ということになりかねない。

サッカー以外でも、特定の分野のプロとして仕事をしている以上、お客さんを満足させられるレベルの結果が求められる。

弱気な前置きや、後ろ向きな言い訳などは一切排除して「コレが自分の仕事だ!」と胸を張って堂々といえるものを出し続けたい。

自分の全力を注ぎ込んだものならきっと、どんな批判や評価もされ素直に受け止められるはずだ。

さて、本日は月曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごして行きましょう。

本日も皆様に少しの幸せが訪れることをお祈りいたしております。

鉄太郎。
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