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おはようございます鉄太郎です。


昨日の我が熊本は出社する際は雪でしたが、私は何時ものように6時30分過ぎにアパートを出てJRに乗車して通勤いたしました。

私はデブで肉布団をたっぷり付けていますので寒さには強いです。


帰宅時はカラオケを歌いたかったのですが、何時ものように食堂に立ち寄り帰宅いたしました。

さて、私は昨日、本日の弁当(酢豚...共食いです)を注文いたしましたので本日は弁当の話題でもいたしましょう。

弁当は中国の南宋時代(1127〜1279年)に作られ、その後日本に伝わり「便道」「弁道」などの漢字が当てられた。 

やがて「弁えて(そなえて)用に当てる」という意味から「弁当」の文字が当てられたと考えられていますが、「弁当」という言葉そのものは鎌倉時代からあったようです。

戦国時代、大勢に一度に食事を与える際、簡単な器に盛って配膳しいました。

ここから「配当を弁ずる」または「当座を弁ずる」「弁当」とする説があります。

これに関連して、現在のような携帯食を「べんとう」と呼ぶようになったのは安土桃山時代だとするものがあるようです。

当時、容器の中をいくつかに分けて(割って)ごはんやおかずを入れていたことから、「破子・破籠(わりご)」という名称で呼ばれていました。

これは現在でも、東海地方の「割子弁当」という名前に残っています。

携帯食すべてを弁当として考えると平安時代にまで遡ります。

当時、「屯食(とんじき)」と呼ばれる、携帯食としてのおにぎりがあったほか、「干し飯(ほしいい)」と呼ばれる調理済みの乾燥米も普及したらしい。

これらは小さな入れ物に保管、持ち運びされたことから、現在の弁当のルーツと言えますかね。

鎌倉時代には、戦用に鰹節を添えた携帯ごはんも活用されていました。

安土桃山時代は、それまで携帯食は笹や竹などの皮に包んでいましたが、弁当箱という形態が生まれたのもこの頃だったそうです。

その後、漆器など箱型の入れ物に食事を入れ花見や茶会などの場で食べるようになっていきます。

弁当という言葉が生まれたのは説では、安土桃山時代に織田信長の逸話で、安土城でたくさんの人に食事を振る舞う際、「めいめいに配る簡単な食事」という意味で「弁当」という言葉を使ったとされている。

江戸時代初期に編集された、ポルトガル語の『日葡辞書』には、「bento」が弁当箱の説明で記載されているそうです。

「引出しつきの文具箱に似た箱で、中に食物をいれて携行するもの」

大名など特権階級が花見、紅葉狩りなどの場で食べるものだったが、次第に庶民の間でも携帯食をすべて弁当と呼ぶようになった。

さらに、庶民にも観光と巡礼を兼ねた旅行に出かけたり、花見をしたりする習慣が根付いたことから、だんだんと弁当の文化も定着していったそうだ。

五街道の整備を行う際、伴い人々の移動が盛んになったことも弁当を発展させ、宿屋の弁当、歌舞伎や芝居見物の文化とも結びついた。

歌舞伎や芝居見物の合間に弁当を食べた文化から「幕の内弁当」が生まれたとする説が強いです。

明治から大正時代には出勤の際に持っていく弁当は、江戸時代から続く「腰弁当」で、腰に弁当をぶら下げて持つというものでした。

今からすると不思議ですが、当時は当たり前の光景だった。

当時は外食産業は未発達であり、学校にも給食制度がなかったので、小学生から大学生まで皆、弁当を持って学校に通っていました。
(私は小学校は給食だったが中学・高校時代は弁当だったかな?)

また、鉄道の敷設により初めて「駅弁」が販売されたのも明治時代です。

どこで販売された駅弁が初なのかには諸説あるが、一説には1885年、大宮〜宇都宮間が開通した際、宇都宮の旅館が駅で弁当を売り始めたのが最初の駅弁とされています。

当時の駅弁は非常にシンプルで、おにぎり2個とたくあん2切れのみで、5銭というものだった。

ごはんを主食としたお弁当だけでなく、サンドイッチが入った洋風弁当が登場したのも明治時代だそうだ。

私の昼食は何時も買い弁です。本日も500円かな?

本日は木曜日。本日も「明るく」「元気に」「笑顔で」過ごしていきましょう。

本日も皆様に少しの幸せが届くよう心よりお祈りいたしております。

鉄太郎。

私の好きな馬のレバ刺しです。