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おはようございます鉄太郎です。


能登半島地震のニュースが減った。本当は情報がもっと欲しいのに...。


さて、本日は「銭湯」のお話でもいたしましょう。

江戸で最初の銭湯は、「慶長見聞録」1914年刊に、天正19年(1591年)伊勢与市という人が銭瓶橋(ぜにがめばし...現在の常盤橋付近にあった橋)のほとりに銭湯風呂を建てた」と記録にあるらしい。

徳川家康が江戸入りした翌年で江戸の城下町も整っていなかったころです。

私が幼少時代は一家は借家生活。自宅に風呂も天井も電話もない時代でした。銭湯に日々通ったことを思いだす。

夏の時期は大タライにお湯を沸かし、井戸の水を手押し式ポンプで水を注ぎ薄めて風呂の代わりにしていた。

また、冬場には風呂があるところに貰い湯(風呂)をしていたこともあった。

銭湯には「ケロリン桶」が活躍しているところもあるようだが...?その前は木桶だった。

富士山の絵。脱衣所には映画の広告。目盛り体重計。

お湯と水の蛇口。番台の脇には男湯と女湯の境には長暖簾(ながのれん)。

「お~い...あがるぞーと近所のおじさんの声...ハーイと奥様の声」がした。

銭湯はご近所さんの集会場だった。番台には周りには顔見知りのオバさん達が烏合集。

髪洗うと十円プラス。締めは子どもの頃はコーヒー牛乳は美味しかったですね。今はビールです。

銭湯の営業は遡れば鎌倉時代とも言われている。個人営業店は1590年代の初期、伊勢与市なる人物が江戸日本橋にオープン。
(鎌倉時代の前は寺院などの社会事業としてはあったらしい)

料金は六文で男女混浴。混浴とはいえ男性は下帯を女性は腰巻を身につけていたそうだ。

銭湯が盛んになったのは江戸時代のことで、江戸名物で庶民の社交場として「湯屋」ができました。

寛政の頃には、現在の風営法「湯屋の定」が決められ、著しく風紀を乱すものとして混浴がご法度になったらしい。

しかし、混浴の習慣は消えず処罰された人もいたそうです。

さて、現在では銭湯では何歳から混浴禁止になるのだろう。

銭湯では地方自治体の条例により男女の混浴禁止が曖昧であるが、子供はその限りではなく、男の子でも母親と、女の子でも父親と入ってもよい。

しかし、子供がだんだん大きくなり、なんとなく微妙な年齢になと銭湯においては、いったい何歳から大人とみなすのか...?

東京都では10歳から混浴禁止がされている。なぜ10歳からかというと親がいなくても一人で入浴できる年齢や性的発育度に鑑み制限しているとか...?

今の若い人達は銭湯を全く知らない人も知れない。

桶のケロリンは、そもそも昭和38年(1963年)に、鎮痛剤の「ケロリン」を販売している内外薬品に銭湯の桶を取り扱う営業マンから「湯桶にケロリンの広告をだしませんか」と提案されたのが始まりだそうだ。

昭和38年頃は銭湯の湯桶が、木製の桶(戦後の桶)が腐りやすい頃。木製の桶から合成樹脂製に切り替えられる時期にあったのだ。

合成樹脂製の桶は丈夫なうえに広告入りで木桶より安価だったようです。

合成樹脂製の「ケロリン桶」は、またたく間に全国の銭湯や温泉・ゴルフ場の風呂まで普及した。

この「ケロリン桶」今では東急ハンズで販売しているらしい。
(これで貴方も家庭で銭湯気分かな?)

この広告の鎮痛剤は、ケロリと痛みがおさまることから「ケロリン」と命名されたと聞いたことがある。

富士山の絵にケロリン桶。たまには銭湯も良いですよ。現在では銭湯を探すのも大変かな。

さて、本日はオマケに勝海舟の言葉でも紹介しておきましょう。

「自分の価値は自分で決めること。つらくて貧乏でも、自分で自分を殺すことだけはしてはいけない」

本日は金曜日。本日も「明るく」「笑顔で」「元気で」過ごして行きましょう。

本日も皆様に少しの幸せが訪れることをお祈りいたしております。

鉄太郎。

一昨日食べた焼きうどん。