先日は北条氏ゆかりの常陸の城「逆井城」にいってきましたが、今回4月12日~13日は大学時代の友人と一泊二日で、北条本拠地小田原方面の3つの城跡に行って来ました。
友人の一人は北条推しの歴史ライター板嶋恒明氏なので、詳細な解説を頂きながらの城・城郭めぐりとなりました
JRの小田原駅で10時半に待ち合わせて、徒歩10分弱の小田原城へ。
この時間天気がぐずついていて、お堀端の桜が綺麗だったのですが、写真に光が足りませんね↓
お城の東側に南北に通る水堀のわきを南下して、馬出し門から入場。
馬屋曲輪から銅門(あかがねもん)へ。
平日の午前中なので観光客もまばらで良い感じです。
銅門にはその入り口庇のあたりに「石落とし」という下向きの開口部があります。攻め手に対して石を落として侵入を妨げるための開口部ですが、板嶋氏によれば、石を落とすこともあるが、鉄砲での攻撃が主であったとのことです。
銅門をすぎて二の丸を通過し、本丸への上り階段。桜が綺麗です
天守閣のある本丸も桜が綺麗に咲いていますがやはり光が足りない
この天守閣は1960年に作られた模擬天守です。復元の元は江戸時代の天守で観光向けに若干変更配慮されたとのこと(入口スロープとか最上階の回廊とか)。ちなみに江戸時代にこの城を守ったのは、大久保氏と稲葉氏とのことでした。
その入り口スロープ階段を上って、チケット\510を払って場内へ。
城内は小田原城に関する様々な展示がされており、じっくり見ていくとかなり時間がかかります。板嶋氏の解説(ここには書けないような裏話含む)を聞きながらそのポイントを巡っていきましたが、それでも1時間半ほどかかったでしょうか? その途中、歴史好き・城好きと思われる見ず知らずの若者男子が、まるで我々グループの一員のように板嶋氏の解説を聞き、何なら我々よりも板嶋氏に近づいて頷いていました。いなくなったかなーと思うとまた現れて参加してきました(笑)。私も時々、説明付きツアーの盗み聞きはしますが、あそこまでがっつり食いついてくる人も珍しいです
最上階の回廊から、外を眺めて(すみません、この時点でだいぶくたびれて眺望の写真を撮らなかった)城内見学終了。
ここからさらに、総構えの大堀切を見に行くという、なかなかのハードスケジュール(お腹すいたー)
本丸から南へ下って二宮尊徳を奉る、報徳二宮神社のわきを抜け、西進して東海道線を超えて、競輪場のわきを通って城山方面へ。東海道線を超えてからはずーっとゆるい上り坂で、じんわり空腹に応える道のり。坂道を上り切ったところに「毒榎平(どくえだいら)」という、毒のある名前をしめす石柱がありました。
現在は城山という地名ですが当時は、毒榎平と呼んでいたそうです。毒榎=油桐のことだそうで、古くは防水用の油をとっていたりしたそうですが、地名との関連は分からないようです。いずれにしても印象深い名前です。
ここを過ぎて少し西へ下ると、南に向かってV時状の堀が現れます。
路傍の説明書きには「小峰御鐘ノ台大堀切東堀(こみねおかねのだいおおほりきりひがしぼり)」とありました。
現在の堀の深さは8~10mだそうですが、発掘調査で確認された深さは12~15mあり、しかも底の部分は、後出の山中城で出てくる北条得意の「障子堀」だったそうです。これはおいそれと「突っ込めー」とは言えない堀です
堀切を南へ抜けると南に海、西に山が見えました。その西に見える山が石垣山だそうで、結構近いです。
上写真の真ん中あたり鉄塔が立っている山が石垣山です。
このあと、駅近にもどって簡単な昼食(夕食が宿で17時半からなので)をとったのが14時過ぎ。
食事後あらかじめA氏が予約しておいてくれたレンタカーで石垣山城へ向かいました。
大きな道から外れて、かなり細めの道へ入って山を登っていきます。さほど時間を要せず駐車場へ到着。石垣山城への上り口です。
もともとは北条氏の支城があったところに、小田原城を包囲した豊臣秀吉が、発案して作られた城。一夜にして出来たとか、関東で初めて石垣を使った城とか言われることもあるけど、いずれも本当ではないと解説の板嶋氏。先ほどの写真でみても小田原城とはかなり近いので、築城中であることを隠すのは不可能だし、急にできて驚かすというよりは、我々は居座りますよとのアピールが強かったとのことです。北条方は、遠征して居座る豊臣側はやがて兵糧が尽きて布陣を解くことを期待していたのですが、秀吉はその期待を砕く効果を狙ったのではとのことでした。関東の石垣の使用は群馬の太田金山城などでも見られるので初めてではない。
石垣山城の石垣は野面積みで、西国から連れてきた穴太衆によるものとのことでした(すみません写真がないです)。
城の小田原に一番近いところから、小田原方面を撮った写真。小田原城は左の木の向こう側で見えない。管理上の問題もあるかもしれないけど、ここは木を切って見えるようにしてもらえると嬉しいですね。
本丸跡には一面「シャガ」という花が、何やら意味ありげに咲いていましたよ。
ここで1日目はおしまい、宿に入って夕食です。
この日の歩数はスマホの万歩計で、14,548歩 アップダウンもありましたからねー頑張りました
からすカーで夜が明けて、13日 天気は昨日より良い感じ。
宿を出て、「山中城」に向かいます。
山中城は箱根の峠より西側の中腹にあり、西から攻めてくる豊臣勢を食い止めるために拡充された城とのこと。小田原城のように凄く有名な城ではありませんが、特異な遺構が良く復元されていて、テレビでもたびたび取り上げられている城です。
ここも板嶋氏の解説で、攻め手豊臣側尖峰を務めた武将”渡辺勘兵衛”の足取りをたどっての見学となりました。
まずは、箱根旧街道の東側、城郭全体からすると南に延びる出丸から。
駐車場から趣のある橋を渡って、旧箱根街道へ、そこから東側の出丸内に入る。
出丸の西、街道側は高くて急な土塁になっていて、街道から上がってくるのはかなり困難。また、南側にも大きな堀がきってあり、一部障子堀となっている。ただ、北条氏は豊臣との戦いに備えてこの城の拡充をしていたけど、戦までに完成できなかったとのことでした。堀の様子は写真では伝わりにくいですねー
土塁の上からは富士山が見えます。
続いて、街道西側にある本丸部分へ進撃。
大手口から先の上り坂↑ 両側が土塁となっているので、無事に入り口へたどり着くのは大変です。
突き当たって城門があったところを右へ折れて二の丸、本丸方面へ
二の丸と本丸の間の堀↓
↑見事な障子堀ですが攻め手から見るとあくどいですね
↑北の丸には見事に花が咲いていました。つつじの仲間だと思われます。
本丸から西へ戻って行って、その先の西の丸、西櫓へ
西櫓から見た富士山。旗は氏康の五色段々(時代が変だが)。
手前の障子堀から西櫓の向こうに富士山
景色的にやはり富士山は強いですね
ただ、障子堀は写真にしてしまうとその高低差などが見えにくいので伝わっていない感がMAXです。興味のある方は是非現地に足を運ぶことをお勧めします。
私が山中城に来たのは2回目ですが、2回来てやっと記憶に焼き付けられた気がします。
この後は、山中城を西へ少し下ったところにある「スカイウォーク」に行って、昼食をとりました。
景色が良いところなので、海外の方も沢山いらっしゃってましたよ。
そこから、熱海へ下って車を返却して今回の2日間の工程は終了。
二日目の歩数は10,660歩でした。
今回、日程調整は宿やレンタカーの手配そして運転も担当してくれたA氏、詳しく解説をしてくれた板嶋恒明氏にはスペシャルサンクスです。
最後に小田原城の記念品売り場にも置いてあった、板嶋さんと伊東さんの著書をご紹介↓
板嶋氏によれば北条氏は「禄壽應隱」の思想による「関東独立国家」を目指したということ。民を慈しみ、義を重んじた政治姿勢は時代的に進み過ぎていて、戦国の殺伐とした西国豊臣方に最終的は負けてしまったのはとても残念に思えます。歴史にたらればはありませんが、もし北条が生き残っていたら今の日本も随分変わって形になっていたのではと思ってしまった、今回の旅でした。