3月2日:つくば市ふれあいプラザで行われていた「文化財の歴史と見方」も第4回最終回。「建造物編」を受講してきました。
場所は茎崎運動公園内の”つくば市ふれあいプラザ”で、講師は千葉隆司先生です。
さて、本題の講義、今日は建造物について!
資料の1ページ目のみご紹介↓
副題は「竪穴建物から看板建築まで」となっているが、竪穴式住居はよく聞くけれど看板建築って?
それはともかく、「講義は日本の森林と材木」の項目から。
日本の伝統的建築と木材は切っても切れないのでまずは上記の確認からということでしょうか。
日本の森林面積は国土の2/3を占めており、そこには落葉広葉樹・針葉樹・照葉樹林があり、資源としての不足はない状況。そんな中、奈良時代には檜、杉、栗、松などは名称がついて、その特徴から使い分けがされていたそうです。残念ながら現在では65%が輸入材になっているとのこと。コスト優先も良いけど日本でとれるものは有効に使っていかないとと思うのは私だけではないと思いますが・・
そして、具体的な建物の話へ
・「竪穴建物」
縄文時代になると、気候も温暖になって食物の確保も容易になってくる。するとそれまでの移動しながら食物を確保するキャンプ的な暮らしから、一つの場所で安定した暮らしができるようなり、定住化が進む。定住化が進むと住居が充実してくる。そこで出てくるのが竪穴建物なんだそうです。個人的には「竪穴式住居」という名称が染みついてますが・・
詳細は省きますが、ようは地面を一定に掘って、そこに柱、梁で構造を作って棟木、垂木に葦や木皮で屋根をかけて完成。中央には炉を切ってそれこそ縄文式土器で煮炊きしていました。
愛知県豊橋市の西側北遺跡で発見された縄文時代草創期(11,000年前)の竪穴建物跡は、直径約3mの円形の竪穴で、30㎝∮の柱穴があり、外周には壁溝が残っていたそうです。
でも、なんで住む場所を盛り上げるのではなく、掘って低くしたのかが未だに納得できない私、壁溝を作っているとはいえ、住む場所は高い方がいろいろ良いと思うのですが、わざわざ低くするメリットは・・? 先生に質問するの忘れてました。
ちなみに東日本では構造材には主に栗の木が使われていたとのことです。
5世紀ごろには朝鮮から”かまど”が伝わり、建物北側に設置され始めたようです。
・「古代の役所と寺院、神殿造、神社建築」
6世紀に入ると仏教が伝わり、その影響が出てきたようです。有力者のステータスが古墳から、建物に替わっていったのです。
崇峻天皇元年(588年)には、百済の国から寺工、露盤博士、画工などの技術者がやってきて、木造建築を発展させたとのこと。法興寺(飛鳥寺)などが建立されました。これを嚆矢として、地方にも同様の建物が建てられるようになり、それが、国衙・国庁などの役所であったり、国分寺・国分尼寺だったとのこと。石岡などにもセットでありますものね、国衙後と国分寺。
奈良時代の金堂建築で唯一残っているのが、唐招提寺金堂なんだそうです。行ったことあるのかも知れないけど記憶にありません
役所建築はいわゆるコの字型の配置で儀礼用の中庭がある。以前、宮城の多賀城国府に行った時、礎石などがそのように並んでいた記憶があります。
写真ありました↓ 2018年秋でした
・「寝殿造」
10世紀になり、貴族が内裏の建築方式に倣って、周囲に塀をめぐらせた敷地内に正殿として寝殿を建て、その南に池を配した中庭を作り、それを取り囲むようにこの字型に建物を配した寝殿造が誕生したとのこと。
849年には遣唐使が中止されたので、日本人の好みを反映した国風文化を取り入れ発展した形とのこと。現在放映中の大河ドラマ「光る君へ」でもよく出てくる形ですね。
先ほどの多賀城国府を訪ねた次の日に行った、”えさし藤原の里”という歴史公園&時代劇撮影用の場所にも、寝殿造りがありました。
良い写真がありませんが↓な感じです。
ホームページのほうが分かりやすいみたいなのでリンク↓貼っときます。
映画「陰陽師」他、いまの「光る君へ」でも使われてますね。
宝くじ当たったら是非「寝殿造」を作って住みたいもんです
話を戻して
・「神社建築」
国風文化はやがて和様建築(”和洋”ではない)として発展していき、神社の建物も様座な様式が生まれたとのこと。詳細は省きますが、妻入り(古代住居由来)や、平入り(穀物倉庫由来)の基本的な違いや、屋根の構造の違い(切妻、寄棟、入母屋を基本とする)での分類が出来るようです。鳥居にもいろいろあるそうですがカッツアイ これから、神社に行ったら建物も気にしながら見ないとです。
中世、鎌倉時代に入ると道具や、建築のための組織もしっかりしてきて、番匠(技術者)や、それを束ねる棟梁という名前も見られるようになりました。また、建築のための道具も発達したようです。その様子は「松崎天神絵巻(国宝)」に見ることが出来るとのことです
寺の建築様式には「大仏様」と「禅宗用」とに分かれ、「大仏様」は石造物編の時にも出てきた南都(奈良)復興に絡んで宋から入ってきた技術と日本の様式がミックスされたもので豪快・壮大な感じ。「禅宗様」は禅宗の僧によって南宋から伝えられた新しい様式で、繊細で装飾的。やはり、繊細で装飾的な「禅宗様」が日本人にはあっていたようで、こちらが広く普及したようです。
今、お寺の軒下に細かい木組みが見られますがこれが「禅宗様」なんですね。
近世になると、書院造を含む陣屋建築や、名主などが住む規模の大きな茅葦民家など、町村に残っている建物が出てきます。うちのかみさんの実家なども古い家で、上から見ると長方形なので「直屋(すごや)」というのだと初めて知りました。これに対して、上から見てL字型なのが「曲り屋」です。
近代建築では、郵便局など正面から見るとシンメトリーになっていて、建物の前半分はお客さんや、事務を執るスペースで、奥は宿直室やトイレなどのスペースになっている。このような建築を「看板建築」というのだそうです。これも初耳でした。
後半は駆け足になってしまいましたが、残念ながら城郭・石垣は出てきませんでした。先生の専門外だったかな。
講義が終わった後に講師の千葉先生に、昨年かすみがうら市歴史博物館に行った時の話をさせてもらいました。その時は、特別展「風返稲荷山古墳と上宮王家ー東国の古墳と飛鳥文化ー」の開催中で、出土した宝剣や馬具などの展示があり、その宝剣の見事さもさることながら、馬具の豊富さにも驚いたことをお伝えしました。そして、常陸の国が聖徳太子の時代から平将門などの時代を通じて、馬の供給地であったことが間違いないことを確認させていただきました。そして、それは現在の美浦のトレセン(競馬馬のトレーニングセンター)にも続いてるんだね~なんて話をしました。
私の方からも、筑波サーキットの近くには”馬場”なんて地名があって、かつてこの辺りは平一族が官牧を営んでいたところ、筑波サーキットでは馬ではないけど、バイクに人がまたがって競い合っているところはつながってる(ちょっと苦笑)なんて話をさせて頂きました。先生も”ほうっ”という顔をされてました
先生の郷土愛を感じられて、お話できて良かったです。
一連の講義も終了して、帰る間際ふと思いついて、仏像編の時に出てきたつくばみらい市の板橋の不動院へ行ってみることにしました。講習場所のふれあいプラザからは車で、15分程度なので。
不動院の前は車で何度か通っているのですが、駐車場が分からず何時も素通りしていました。果たして今度は・・と思って行ってみると、ありました「大駐車場」が。特にシーズンでもないので2台しか止まっていない大駐車場に3台目として車を止めて行っていました。
駐車場は不動院の真裏になるので、脇道を通って正面に回って入り口からのショットが↓
阿吽の形相の仁王様がいる立派な仁王門のわきには三重塔
門をくぐると↓
これまた大きな本堂が、これは入母屋造りの平入りの形になるんでしょうか・・習ったばかりですが、実践は難しい
狛犬さんは新しくてリアルでした↓
後ろにいらっしゃるのは弘法大師様です。
この不動院では、白犬にまつわる伝説があるため、狛犬さんもこのような形になっているようです。その昔、村の女性たちが難産に苦しんでいたのですが、ある晩お不動様の使いとして白い犬がやってきて、みんな揃ってお不動様をお参りすれば救われると言われて、その通りお参りをすると難産がなくなったという話だそうです。
それもあってか、本堂入り口の周りには昔からのお参りの額が沢山かかっていて、地元から愛されているお寺であることを感じました。
お参りを終えて振り返ると↓
仁王門の裏側にも白い犬がいました。
境内には河津桜でしょうか、咲いていましたがさすがに少し寒そうでした。
次は是非「不動明王と二童子」の御開帳の時に来てみたいです。