2月17日:つくば市ふれあいプラザで行われている「文化財の歴史と見方」の第3回「石造物編」を受講してきました。

 

場所は前回と同じ茎崎運動公園内の”つくば市ふれあいプラザ”です

©google map

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さて、本題の講義、今日は石造物について!

資料の1ページ目のみご紹介↓

正直前回の仏像に比べて石造物というとあまりそそられない話題だなーと思っていましたが、いきなりつくば市内の下河原崎谷中台遺跡の話で掴まれました。

ここからは2万5~6000年前の石器が出てきているそうで、そんな前からつくば市周辺には人々が暮らしていたのかと思うと感慨深い。聖徳太子の何倍(18倍くらい?)も前である。使われている黒曜石には日光産や長野産さらには伊豆諸島の神津島産のものもあるとまた驚くびっくりそんな昔でも島との人の交流、物の行き来があったんですねビックリマーク

この当時世の中は狩猟・採集なので、石器はドングリ類をすりつぶす石皿や磨石、動物の皮剥ぎ用の掻器、調理に使う石斧・石包丁などを作って使用していたようです。すり潰したドングリに狩猟で撮った獲物の肉を混ぜて、縄文ハンバーグよだれを作って食べていたとか。我々のご先祖様が、このようなものを使いながら生活をしていたかと思うと、けなげでかわいらしいと同時に尊敬してしまいます飛び出すハート

 

古墳時代になると、大型の石を使っての墓づくりも始まり、それらを運ぶ「修羅」や舟運も発達したそうです。「修羅」とは地上でそれに石を乗せて、コロで転がすようなもののこととか、初めて聞きました。Google画像で「修羅」で検索すると強めで怖げな人しか出てきません、阿修羅男爵とか(そりゃそうかガーン)。改めて「修羅_道具」で検索すると出てきました。やはり大きな石を乗せる木でできた、あるいは組んだ台状のもので、下に丸太を数本コロとして入れて重量物運搬。この形、エジプトのピラミッド作りのイメージですが我々のご先祖様も使用していたんですね。

使われる石は板状に割れやすい変成岩が使われ、近辺ではかすみがうら市粟田やつくば市平沢を産地とするものが使われたようです。具体的な古墳はつくばでは佐古墳群(近いけど知らなかった)や山口古墳、県内でもひたちなかの虎塚古墳や霞ケ浦周辺の古墳群などです。

大きな石材を使用した一方、装飾用の小さなものの加工技術も進んで、勾玉や管玉などの製品も作られるようになりましたラブ 以前、島根県松江でこの地方で古くから作られてきたという勾玉をお土産で買ってきたことを思い出しました。

 

時すぎて仏教が伝わったのちは、中央政権の施策もあり寺院の建築ラッシュとなり、石はその礎石として使われました。茨城国造、筑波国造、新治国造などで京伝来の阿弥陀堂建築が進んだとのことです。

 

更に下って平安末期、源平合戦のなかで起きた平重衡の南都(奈良)焼き討ちの復興を契機として宋の石工文化が広がったとのこと。

真言宗の僧”重源”は技術者を集め東大寺などの復興を目指しましたが、その技術者の中に宋は寧波の技術者”伊行末(イギョウマツ)”さんもいたようです。彼の作品は運慶・快慶の仁王像で有名な東大寺南大門のその裏側の狛犬に残っているとか。仁王像は見たけど、すみません記憶にございませんゲホゲホ

鎌倉時代に入って、1200年代半ばには西大寺僧の”忍性(ニンショウ)”が律宗をひろめるため、三村山(現在の宝篋山)に「極楽寺」を開きました。その中で不殺生界との仕切りである「結界石」や、山頂の「宝篋印塔」などの石造物を残しました。また、”忍性”さん後任の”頼玄”和尚の供養塔である「五輪塔」もあるとか。宝篋山に登った時にわき目で見たような気がしますが、今度行ったらしっかり見ないとです。

と、思ったら5年前の写真にありました↓ 小田氏開祖の八田知家さんも極楽寺復興に絡んでいたそうです目

↓は頼玄さん供養の五輪塔ですね

「五輪塔」は日本でデザインされたものだそうで、宇宙を構成する五つの要素が取り込まれているとのこと。

上から、頭、首、心臓、臓、足、という構成でそれぞれ、空輪(宝珠)風鈴(半円)、火輪(三角)、水輪(円)、地輪(四角)、となるそうです。お墓で使う卒塔婆はこの五輪塔を簡略化したものだそうです。なるほど・・うさぎのぬいぐるみ

 

近世、江戸に入ると社会が安定して、民間レベルの信仰に基づく石造物が沢山作られたとのこと。一般の人が災厄を逃れたり、無事を祈ったりするために行った宗教的行事に平行して石造物が寄進されていったようです。

百万遍念仏や百堂念仏、日待、月待、庚申、巳待、といった行事があったようです。今では見ないし、私自身もやったことないですが、こういった行事をやっていた昔のほうが今より時間に余裕があったんだろうなと、そこに考えがいってしまいます。

因みに「庚申待」とは、庚申の日(60日に一度巡ってくる)には、人の身中にいる三尸(サンシ、虫みたいなもの?)が、その人の罪を天帝に告げて、命を縮めようとするガーンので、三尸が体から出ないように一晩中勤行をして過ごすイベントだそうです。へー

また、江戸になると檀家制度が整備され、庶民の葬送システム?笑い泣きも確立されるので、墓石も各種取り揃えられたようです。

 

明治に入ると、西洋化の波が押し寄せ、東京では石の建造物ラッシュが始まります。

使用する石は、堅牢で見栄えも良いことが要求され、筑波山系の花崗岩が多く使われたそうです。

使われた建物には「日本橋」「迎賓館」「帝国劇場」「日本銀行本店」(日本銀行本店を上から見ると「円」の形になってるって初めて知りました耳)など多数に上ります。その運搬には水戸線やその支線の今は無き筑波鉄道が活躍したそうです。

考えてみると真壁や岩瀬などには、昔ながらの石材加工工場が沢山ありますがその流れなんですね。

そして今でも、小田には仮面ライダーが戦えそうなパンチ!大きな採石場がありますが、これは現代のコンクリート用として、多く使われているそうです。

 

日本は木の文化だと思っていてそれは間違いないのでしょうが、一方で石造物も昔から身近にあったものだと再認識させられた講義でした。ただ、今回石垣の話が出てきませんでした。次回でてくるのかな・・・

最後は、「筑波山地域ジオパークの活動に参加して、郷土を盛り上げていきましょう」と締めくくられました↓

ジオパーク活動ってユネスコ由来なんですね、これも初めて知りました!!

今後、フォローしていくつもりです。

 

今回もたくさんの初めてがありましたニコニコ

次回は最終回、「建造物」編です。