なんか最近…なんと言うか…福音に捕らえられている感じだ。
パウロの言葉を借りれば、“福音の僕とされた(エペソ3:7)”とでも言おうか。そして、みことばの計り知れない(無尽蔵の富)深さを示されている。

今日も女子での集まりの後にプチバイブルスタディになった。
そしたら、わたくし話し出したら止まらない(笑)
次々と聖書の箇所が示され、どんどん話しが拡がっていく…。
でも、みんな分かりやすいって言ってくれたし、このような機会を作ってほしいって言われた。
『私』だからみんな抵抗なく質問できたり、『私』だからみんなの隣人になれるんだよなぁ。
『私』のキャラって言うか…これも賜物だよなぁ。

『モグちゃんそのうち牧師になるんじゃないの!?』って言われたけど、笑って返せない自分がいた。

ホント、今、捕らえられてる感じだもん。
私の意志とは関係なくw
どうなるんだろ。
主は私をどのように取り扱われるんだろ。

質問されても分からない事も多いし、まだまだ知らない事がいっぱいある。
でもそれを学ぶために、またこの土の器を整えるために神学校があるんだよね。

そんな事言ったら『救い』と一緒かも。
『これが分からないから、よく理解できていないから、私のココがダメだから救いはまだ。』
と言っているのと同じに思えてきた。
主の働きを人間の思いで留めてはいけない。

主の『Go』が出た時にすぐに出られるように今やるべき事をやり、祈り備えていきたい。
今日、仕事で何気ない事で打ちのめされた。
男性に支配される恐怖。
トラウマ…まだ癒されてないのかも。
怒られたわけでもなければ、怒鳴られたわけではない。
でも、態度と言葉の背後にある思いが…怖い。
火曜日は神経が鋭敏になってるから余計に打撃を受けた。
こんな何気ない事で凹んで…一般社会の人間からしたらただの『弱い人間』。

『こんな事で泣くな』『泣くくらいの力があるなら結果を出してみろ』『弱いなぁー』過去に浴びせられた言葉たちがこだまする。

あーあ。

やる気を失うわ…。
もう嫌だわ…無理かも…。

こんな時こそみことば…と聖書を開く。

詩篇5編。

私にはイエス様がいる。
別に人間にどう思われてもいい。
極端に言えば、たとえ人に嫌われ、ひとりぼっちになったとしても、イエス様がいて下さるならいい。

それが主の道ならば私は歩み続ける。
狭くて細い、決して平坦ではない道かもしれない。
でも私は主の道を求め、進み続ける。
私は主に信頼するゆえ、何も恐れる事はありません。

なぜなら…
神は『有って有る者』ですから。
聖霊が…やばい。
神学に凝り固まった魂が開放された感じ。
凝り固まった覆いが取りのけられたから、聖霊の満たしが半端ないw
初めて駅の改札前でピョンピョン跳ねたよf^_^;
聖霊に酔ってしまって仕方ない!
でも、これだよなぁ…腹の底から喜びが溢れ出る感じ…これだよ!!!!!
神学も大切だけど、私はこっちの領域の召しを感じる。

霊的な領域の働きが賜物ならば、そこを主のために用いなければならない。
聖霊に満たされている…今、見える世界が違う。
これだよなぁ…と感じる。何も思い煩いもなく、主の御前に隠さなければならない所もない…全てを明け渡せるこの自分の状態。

これだよ、これ。
何のための神学で何のための教会なのか?
何のために働き、何に仕えているのか?
何を動機として仕え、何をもって主に栄光を帰していくのか?
ミニストリーに携わる者としてもう一度、その姿勢を見直さなければならない。
悔い改めるべき所は悔い改め、変えるべき所は変えなければならない。


なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
(マタイ7:3-5)


このような事はないだろうか?
自分自身、考えなければならない。
主のミニストリーに携わる者はまず自分を吟味しなければならない。
高ぶる者ではなく、常に仕える者でなければならない。
主に仕え、人に仕える…魂に対して配慮をしなければならない。
つまずきになるような事はしてはいけない。

霊的な目で見ればミニストリーに関してのいろんな事が見えてくるわ。
いけない。
これではいけない。

とりなし…祈ります。