夕張には、多くの石炭層が分布していた。


夕張の炭鉱群は夕張炭田といわれ、

北炭(北海道炭礦汽船)が幌内炭鉱に続いて夕張に初めて「夕張炭鉱」を開発した。

続いて、

北炭が夕張炭鉱周辺に「新夕張炭鉱」「夕張新炭鉱」「平和炭鉱」「清水沢炭鉱」「真谷地炭鉱」、夕張山地北側に「万字炭鉱」

三菱鉱業が夕張市東部地区に「大夕張炭鉱」「南大夕張炭鉱」などを開発した。


特に夕張新炭鉱と南大夕張炭鉱は、「ビルド鉱」として、最新の設備を導入し、開鉱されたが、多数の犠牲を伴う事故が相次ぎ、南大夕張炭鉱が1990(平成2)年に閉山し、夕張から全ての炭鉱が閉山した。


最盛期の夕張には、大小24の炭鉱があった。


その中で今回は、

夕張の名のつく、複雑な3つの炭鉱「夕張炭鉱」「新夕張炭鉱「夕張新炭鉱」について、私なりに調べてまとめてみた。
(※間違いが多々ある可能性あり。)



調べていると、夕張鉱業所というものが出てくるが、
夕張鉱業所=北炭夕張炭鉱?
子会社の呼び方?古い呼び名?

北炭は各炭鉱を3つの子会社にして運営していた「北炭幌内炭鉱」、「北炭夕張炭鉱」「北炭真谷地炭鉱」
(北炭夕張炭鉱の下に夕張炭鉱、平和炭鉱などがある。)

坑口を鉱区ごと区別して呼んでいたと思われるが、詳細はよく分からない。(複雑過ぎる💦)

最盛期の1960年代には夕張鉱業所として一鉱・二鉱・三鉱・清水沢鉱があった。
第一鉱→千歳坑、最上坑、北上坑、長良坑
第二鉱→天竜坑、大新坑
第三鉱→松島坑、橋立坑(のちの新夕張炭鉱)
※また鉱は砿とも書かれていることがあるが同じ意味


北炭は大正7年、類似する坑名がふえたため、改称し炭鉱ごとに統一した。

夕張礦は河川、幌内は滝、真谷地は樹木、空知は道路、新夕張礦は日本三景など景勝地、平和は神社から
(ガス爆発や自然発火など火の災害を遠ざけたいとの思いから、水に関係する名前を付けた。)


奥が深すぎる夕張の炭鉱!



北炭夕張炭鉱

夕張で初めて開発された炭鉱


現在、跡地は石炭の歴史村(夕張市石炭博物館)付近にあたる。

1888(明治21)年: 北海道庁の技師、坂市太郎が志幌加別川の川上流にて大炭層の露頭「夕張の石炭大露頭」を発見

1890(明治23)年: 北炭が夕張炭鉱の開発に着手

1892(明治25)年: 夕張炭山の採炭開始
北海道炭礦鉄道 追分-夕張間(石勝線)開業 11月 初代夕張駅開業

北炭夕張炭鉱のWikipediaによると、
1912年~1965年の間に爆発事故により、多数の死者が出ている。

1977(昭和52)年: 北炭夕張炭閉山


夕張炭鉱の坑口名は坑内火災を避けたいという思いから、河川名を使用している。(千歳坑、天竜坑など)

※開発初めの各炭鉱坑口は類似の名称が多かっため、大正7年煩雑化を避けるため、各炭鉱ごとに統一改称を行うこととなった。
(例/変更前:一番坑   変更後:千歳坑)


神通坑では1925(大正14)年に発生した火災が90年以上経った2020年現在においても鎮火していない坑道がある。



北炭新夕張炭鉱

1897(明治30)年:石狩石炭(株)によって開発に着手された。
(1927年北炭が石狩石炭(株)から権利を継承(合併))

1963(昭和38)年:北炭としては終掘

1971(昭和46)年:新夕張炭鉱株式会社が稼行し、閉山

現在、跡地はマウントレースイ スキー場付近にあたる。

炭鉱跡は、坑口を残すのみである。

新夕張炭鉱の坑口名は日本三景からとられている。(松島坑、厳島坑など)



北炭夕張新炭鉱

夕張にあった炭鉱のうち、最後まで残っていた炭鉱の1つ

ビルド鉱として国を背負い最新鋭の設備を有して大規模な炭鉱開発が行われた。


1970(昭和45)年:夕張新炭鉱の開発に着手(1975年出炭)

1981(昭和56)年10月16日:大規模なガス突出事故を起こし、死者数93人、重軽傷39人を負った。

1982(昭和57)年10月:閉山


構内設備も全て新設ということから、当時の炭鉱業界の中では一番良い設備であり、立坑櫓も作られた。
建設中の立坑櫓

立坑櫓は三池製作所のZ型(新R型)立坑

夕張市石炭博物館のシンボルの立坑櫓モデルになっている。


国の格付けにおいて最も高いランクのビルド鉱として国の補助金を得て、最新鋭の設備を有して大規模な炭鉱開発が行われ、当時陰りが見えていた石炭事業の起死回生の一発として、国、会社、地元の期待を一身に受けていた最有望鉱であった。

が、1981(昭和56)年10月16日、日本炭鉱政策を揺るがす大規模なガス突出事故を起こした。
更に坑内火災で二次災害が起き、火災鎮火の為、坑内に59人もの人を生き埋めにしたまま見殺しで注水
最終的な死者数は93人に達し、39人が重軽傷を負った。
(戦後に発生した炭鉱事故として死者数、3番目の大惨事)


事故から1年後の1982(昭和57)年10月に閉山


その後、石炭事業の衰退が急速に加速して、北炭自体も倒産
1990年には、南大夕張炭鉱が閉山し、夕張の炭鉱は全て消滅した。


今も残る夕張新炭鉱のスローガン
「無災害 あなたが主役の自主保安」
「我が新鉱をかっちり守ろう 出荷と 保安 生産で」


現在、北炭夕張新炭鉱のあった場所は立坑櫓や炭鉱施設は壊され、土台が残されているのみで更地になっている。

しかし、1981年に起きたガス突出事故のことは忘れないよう夕張新炭鉱の通洞口の脇には慰霊碑が建てられている。




夕張には他にも炭鉱が沢山あるので、また今度調べてまとめられたらいいなと思っています。