「あなたが望む世界に…」 | 本橋ユウコの部屋

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ちょっと久しぶりに書いてみようかと思う事があったので。


昨日おとといと、埼玉の実家ではいつものようにNHKがついてたんですが。

夜の番組で「シリーズ感染爆発」とかいう、鳥インフルエンザが人・人感染するものに突然変異した場合の恐ろしいシナリオ、みたいなかなりショッキングな内容の番組(第一部が国内シミュレーション・ドラマ、第二部が現実の世界の現場レポート)をやっていました。
まあ、まず誰も見てなかったでしょうな~(笑)。ま、やってたんだなと。。

内容的には、世界の誰も免疫を持ってない、発生すれば致死率50%以上ともいわれる”最強ウイルス”強毒性の新型インフルエンザが本当に国内で発生した時に、いかにこの国の官僚組織や政治機構が無力であるか、大都市で感染爆発を食い止めることが不可能に近い困難な事であるか、結局、最後は現場で戦う人達の頑張りに期待するしかないのか…みたいな相当、絶望的な話になってまして。。(落)。

その被害想定シミュレーション・ドラマの中で(何故かみんな異常にせりふが棒読みだったんですがあれはワザとでしょうか?苦笑)もう終わり近くにこんな印象的なシーンがありました。


最悪の展開をたどってついに東京で新型インフルエンザ大流行が起こり、交通や物流が止まるなど都市機能が麻痺し始める中で、主人公である医師(元・大学ではインフルエンザの専門家だった)は周囲の反対を押し切って新型インフルエンザの患者を自分たちの病院に受け入れることを提案します。
感染を恐れる他の医師や、病院長までが逃げ出す中、彼は黙々と押し寄せる患者たちに向き合います。

医師が看護士長に「人工呼吸器何台借りられる?」と問います。
それからしばらくして、タミフルも一切効かなくなった新型に感染して、重度の呼吸困難に陥った臨月近くの妊婦さんが救急搬送されて来ます。
もうベッドも、人工呼吸器もいっぱいで余剰はありません。
その時、緊迫した状況で医師は一人の高齢の男性患者(進行した前立腺ガンの)に向かってこう言います。


「じいさん。あんたの呼吸器、外させてもらうよ。これから妊婦さんに使わなきゃならないんだ」


…この医師はちょっと始めの方はやさぐれていて、老人はそんな彼のひねくれた心を時にほぐして、ひょうひょうと、でもやさしく人生の機微を教え諭してくれていたような人物でした。

同時に、老人は「延命治療を拒む」という趣旨の手紙をあらかじめ医師に手渡してもいて。
そんなこんな経緯があった末に、「呼吸器外すよ…」の一言はありました。

老人は、呼吸器の下でかすかに微笑んでいるように見えました。(ほんとに役者さんって凄いですね…)

医師が呼吸器を取り外すと、ゆっくりと老人は息を吐き出し、じきにもう動かなくなりました。
それを見届けて、慌しくベッドごと外に老人(の遺体)が運び出されると、廊下で待っていたようにすぐさま苦しむ妊婦さんのベッドがその同じ部屋に運び込まれ、急ごしらえの出産準備が始まりました。

やがて廊下に赤ちゃんの元気な声が響いて、母子ともに健康、という言葉にほっとした若い父親の顔から物語はひとまずエンディングに向かいます…。



この番組で、もちろん新型インフルエンザ恐いな~と思ったのも当然あるにはあるんですが、それよりもむしろ私の印象に強く残ったのは、この「じいさんの呼吸器外すよ」の一言、あのシーンでして。
たまたま設定上、老人にはそれに反対する家族も親戚もいない天涯孤独(?)の身の上でしたが。

これは、平時にはまず絶対にありえない、急迫の非常時のみに許される”命の選別”という行為です。
災害時などに現場の救急・医療関係者に義務付けられている「トリアージ」と同じ考え方です。

どうしたって持てる器具、資材、人員では、目の前の全ての患者を救うことが出来ない。
その時は、「まず”助かる”可能性の高い患者から優先する」という順位付けをする決まりなのです。
野戦病院のようになった現場では、運ばれてくる患者を片っ端から来た順に診ていたのでは医薬品も、人手も、たちまち足りなくなる。そうなっては助かるはずの命も救えなくなるかも知れない。
だからその時は、誰かが全責任を負って「助かる命、助けられない命」の線引きをしなければならない。

でも、ほんとのところ、いったい誰にそんな権利があるでしょうか?

現実に「…なんで助けてくれないんだ!?」と叫んでいる患者や、その家族を目の前にしても。




話は若干飛ぶかもしれないんですが。

このシーンを思い返しながら、私が連想していたのはここ最近急に言われるようになった「格差社会」という、あの言葉でした。


政治や経済もよく”病気”に例えられる事があります。
「痛みに耐えて」
「悪い膿を出しきる」
「大手術が必要だ」
「健全(健康体)に戻す」
などなど。

そういうスローガンを掲げて、ついこの間まで色んな面で”改革”が推し進められていた、ようです。
あの時は、皆がそれに諸手を挙げて賛成していた。
強力に応援していた。


そして今、”改革”の結果と言われる様々な「ひずみ」が社会を不安定にしている。

経済効率最優先の思想の下で教育や医療の現場は崩壊寸前、過酷な労働環境に働く人々の意欲は低下し、若者の間には未来への絶望が蔓延―。結果として、強くなったはずの日本社会の足元が揺らいでいる。
世界の中での日本の地位も低下に歯止めがかからない。どう見たって元気なアジアの他の新興国市場に比べて将来性という意味で見劣りがするから。

じゃあ、どうしてこんなに日本中が活力がなくなってしまったのか?

…だってあの時、「痛みに耐えて」手術をするということに皆で「賛成」してしまったからね。

「膿を出す」「弱いものには退場していただく」
そういう言い方で切り捨てを決められたのが、つまりこの自分たち(庶民)だったという訳で。

「強いものを一層強くして、その少数に国全体を引っ張ってもらう」
その予定だったんだけど、確かに強いものはより強くなったけどちっとも他のみんなを引き上げるような努力なんかはしてくれない。世界との激烈な競争の中で自分の身を守るので手一杯だから大企業は。


ギリギリ吸っていた酸素を取り上げられて、ひゅーひゅー苦しんでるのが今の日本社会の大半。
しかもその取り上げられたモノが本当にこの国の為になることに使われたのかは今は確かめようがない。

そして、それは「選挙によって」自分たちがかつて選んだ結果だと。




災害などの非常事態下で「トリアージ(選別)」が許されるのは、それが「救うため」にやむなく採られる最後の手段だからです。

しかも、神でないただの人間である現場の人達にその重い判断を預けるということは、彼らに、自らが救えなかった人々の苦痛と絶望の表情を、生涯、背負わせて歩かせるという残酷な使命なのです。
たまたま、その職務についたというだけで背負うにはあまりに重い十字架を、背負わせるシステム。

私が見たのはドラマでしたが、恐らく世界中の様々な現場で今も、そうした「選別」は起こっていることでしょう。あるいはこの日本でも、今日、いま、どこかで。



「選別」。

誰を救い、誰を救わないか。
その判断が下されるための最低にして絶対の条件は、判断を下す側に「救えなかったものたち」に対する”贖罪”の念―、その人らと同じであろうとするだけの深い悲しみ―、がなければならないと思う。
いや…あって欲しい。…あるべきだ…。

「じいさん、あんたの呼吸器外させてもらうよ。これから妊婦さんに使わなきゃならないんだ」

そう言った医師と、それを聞いた患者の老人。
おそらく彼らの双方が、誰を、何を、これから救い、守ろうとしているのかを、よくわかっていた。
だから、老人は静かに微笑んで(いるように見えた)いたのだろう。


年老いた自分の、今ようやっと生かされてるこの「命」と引き換えに、「未来」を守るのだ、と―。



私が見たのはドラマだったけど。

あれはきっと、本当の話なんだろうと思う。今も現実に世界のどこかで起こっている…。







今日、休日の午後に、地球温暖化関連の番組を見ていたら、その中でインド人の科学者の人がこんなことを言っていた。尊敬する故国の民主化運動の英雄の言葉として。



「あなたが望む世界に、あなた自身がなりなさい」



この言葉を言った人の名前は、マハトマ・ガンジー。
かつて植民地支配に苦しむ貧しい民衆の為に「非暴力・不服従」を貫いて闘い続けた人だ。

科学者の本棚に飾られたガンジーの古い古い茶色くなった肖像写真は、とても穏やかで理知的で。


そして美しい顔をしていると思った。