ブログだって立派な表現なのだ。。 | 本橋ユウコの部屋

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引用は良くないよ、とか言ってたくせにまた引用記事かよ(笑)。

いやでも、私は新聞とか雑誌とかネットニュースで記者を名乗って記事を書く人達というのは、作家ではなく、ジャーナリストであって、ジャーナリストは自分の記事が読まれ、繰り返し引用され、広く流通するようになることで世の中を動かそう!ていう意志を持ってやってる人達だと思ってるから。

だから、新聞とかは引用、します。
ていうか結構、それも大事な任務のように思っているので…。
(だって~世の中情報多すぎて、一人が得られるものなんてたかが知れてるでしょ?困)


久しぶりに、ニュースでいい話をみっけた気がします。こちらの記事↓

「給食で学ぶ食の意味 神奈川・厚木市内の小学校 残飯飼料→豚→食材」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071024-00000109-san-soci


もちろん、こういうのが出てくるとかならず「残酷だ」「教育上よくない」うんぬんの反対意見がワンサとあるってことも知っています。たとえ攻撃されても真正面からお受けします。


その上で、私はこの人達の姿勢は正しいと信じる。


この一種、冒険な教育内容を考えた誰か個人、それを許して、やらせている周囲(管理側や児童の父兄を含む)、真剣に受け止めた児童たち、記事にした記者、記事を載せた媒体の責任者まで…。

みんな素晴らしいです。いい仕事してくれたと思います。


私たちはコンビにでも、スーパーでも、デパートでも、ホテルでも、病院でも、社員食堂でも、ファミレスでも、老人ホームでも、学校でも幼稚園でも、一般の家庭でさえも、それこそ膨大な量の食べ残しをゴミとして廃棄している現実をうすうす知っています。
知っていながら、何も出来ないでいる。

自分が太りたくないから茶碗のお米を残すことを止められないし…(メタボ排撃論も盛んになって)。
コンビニやスーパーやデパートでは、品切れを起こすということは本当に致命的なことだからです。
それは「機会損失」と呼ばれ、経営においては非常な”悪”なのです。

でも、見るからに、明らかに誰もが「食べきれない量だ」ということは知っている。


その一方、世界の多くの国にはその日の食べ物にも事欠く国民を抱える国が山ほどある。
それどころか日本を含めた先進国にだって、国内に様々な「難民」がいる。それを皆が知っている。

知っていて、やっぱり、どうすることも出来ないでいる…。

製造、流通、販売、全ての経済の巨大な流れの中にそれらのことがガッチリと組み込まれてしまって、誰もどうしようもないと思っている。たくさん買って、たくさん捨てて、またたくさん買わされて…それこそが「資本主義」の”正解”だと何処かの誰かにかたく信じ込まされている。


でも、本当にそうでしょうか?


江戸時代の日本は、世界でも有数の資源再利用国でした。
破れた布、割れた器、人糞にいたるまでちゃんとお金を払って引き取る業者がいて、そこには流通が成りたっていました。江戸をはじめ人口が密集した都市が出す多くの廃棄物が周辺の農村などに渡され、畑の肥料や家畜の飼料になり、そこで採れた産物がまた都市へ循環するという。

こういうの、私はとっても美しいと思うのです。生物のライフスタイルとして。


昔が何でも良かった、あの頃に戻るべきだ、とは言わない。無理ですし。
江戸以前には今とは比較にならない男女差別、幼児死亡率の高さ、火災発生件数の多さ、成人寿命の短さ…等の様々な社会の負の側面もやっぱりありますし。

それでも一つだけ言えることは。



人間は、絶対に”進化”だけをする生き物じゃない。



「いま」が一番正しくて、優れていて、最高だなんていうことは決してない。いつもどこかに歪みは存在する。それは、人間存在そのものが歪みを抱えて生きているものだから。

でも、だからこそ常に努力する意味があるのです。
「もっと良く生きられるはずだ」と皆が思わなければならないのです。
そうしなければ、きっと世界は悪くなる一方だったと思うから。

つまり、これまでもずっと”誰かたち”がそれをやってきてくれたってことですよ。
そして今度は私達の番だってこと。


本能の枷に守られた動物とは違う、人間だからこそ、不断の緊張と、多くの矛盾に耐えて、せめて最善を模索し続けなければならないと思うのです。どんな問題、どんな現場であれ。

「一人でも多くの人が、今より少しでも”幸せ”に近づけるにはどうすればいいか?」を。

そのためには、個人がちゃんと自立して、自分で考える存在であることが最低条件なのです。


さっきまで生きてた豚が肉=自分の食料になる。
それを教えることは、やっぱり必要だしいいことだと思う。目の前で惨殺しろとかいうのでもないし。


生き物は、死ぬ。死んだらもう戻ってこない。
そのことを知らないで大人になってしまうと、「だから大事なんだ」とは思えないような気がする。
それを教えるのは大人になってからでは遅いと思うのです。


ゴミの問題も、それがたくさんの会社の利害に直結するだけに色々難しいでしょう。

でも、この学校の先生や児童たちは一歩踏み出して見せてくれた。
あ、こんな方法もあったのか!?と思わせてくれた。
それがちゃんと自分のところに届いた。

それらのことに感謝したいです。

そして、目にした以上はまた私から誰かに伝えなければ。



ブログは、新聞でもテレビでもない。厳密にメディアと言えるのかどうかもよくわからない。
ニュースとしての速報性はないし、論じているのも全然プロじゃない。そのへんの人です。
そのへんの人が、それなりの知識・見識で、自分の思いを文字にしてるだけ。


でも、その「思い」こそがブログの真髄だと私は思うのです。


拙い言葉でもいい、たまに間違ったりしてもいい、名乗れなくてもいい、それでも、どうしても言わずにいられない何かを持っている人が、それを書く。
「思い」がこもった記事を読んだ誰かが、共感を寄せてくれる。
その共感が少しずつ広がって、いつかは大きなうねりになるかもしれない。
そのうねりが、世の中をほんの少しでも変えるかも知れない…。


この可能性を信じることが、つまりはブログを書く、発信するってことなんじゃないか。

私は、今ではそう思うのです。



振り返ると今年の春にブログを開設したばっかりの頃、私自身が「こんなものにどれほどの意味があるんだろう?」と書いていました。


今、数は多くないけれど心優しくて、礼儀正しくて、意識も高くセンスも良い素敵な仲間が何人もブログを訪問してくれています。
その人達を私も訪問して、多くのものを貰い、毎日学んでいます。


ブログ、やってよかったです。


いつかこの日々は終わって、ブログを閉鎖する時が誰にも来るのでしょう。この私にも。
その日が来るまでは精一杯、多くのことを学び、皆にそれを伝える私なりの務めを果たしたいです。



誰に強制されてやるのでもない。

それが、私という生きものの喜びだから。