人のことに関心が高いのは、周りの人が自分と違うからだと思います。

例えば、気配りのできる人とできない人がいます。

場の空気を瞬時に読み行動できる気配りのできる人は知らぬ間に重宝される人になっていきます。

つまり、人気者ですね。

そして気配りのできない人は空気を読めなかったり、自己中だったりしてたいてい嫌われていきます。

でも、そんな一般論で片付けられないのが人生。

例えば、あなたが自分では気づきもしない欠点があったとしましょう。
その欠点は、知らぬ間に周りの人を傷つけるようなものだったとします。

あなたの回りには気配りのできる人ばかりいます。
あなたの知らぬ間に気を回し、いかにも傷ついていないかのように場が包まれていきます。
果たしてあなたは真に幸せになるでしょうか?

そんなあなたの回りに突然一人の気配りのできない人が現れて、禁断のベールをことごとく簡単に剥がします。
その人は突然告げたのです。
「あなたのそう言う言動は本当に傷つきます。周りの人も傷ついてるって言ってましたよ」

あなたはハッとして、これまで保たれていた平和は周りの気配りと犠牲と共にあったことに気付くことができたのです。

気配りのできる人ばかりがいては、気づけないことがいっぱいあります。
どんな人でも存在する意味があるんです。

個人的には存在の意味は後で考えればいいと思っていますが、それでも言えることは

いい人ばかりではいい人にはなれないってことです。

これは反対も同じだと思います。

どんな生き方でも誰かの気づきになるのは間違いないんです。

だから私は気配りのできる人もできない人も好きです。

みんなのお陰で自分という存在を作ってもらっています。


今日の本気が未来を描く