■一橋大学・国立キャンパス(東京都国立市中)
夏目漱石の代表作「坊っちゃん」の主人公の兄が通っていたことで知られる(のか?)。
官立高等商業学校としてスタートし、旧制・東京商科大学に昇格。関東大震災で神保町の校舎がほぼ全壊したため、国立市に移転。戦後に一橋大学と改称した。
経済・経営系の名門大学だ。
同じく経済系が看板学部の慶応は、地方の豪商など企業オーナーの子弟が通い、卒業後は家業を継ぐのがパターン。一橋は財閥系など東京の大企業に、近代的経営を担う幹部候補生として就職するのが戦前のお約束だった。
さて、一番有名な建物が兼松講堂。伊東忠太設計のコンクリ建築。1927年。
伊東忠太は東京帝大教授。建築史やデザイン方面の専門家だ。
戦前の大学はゴチックスタイルで固めるところがほとんどだが、ここはロマネスク。そしてロンバルディア帯で装飾。
ゴチックはキリスト教の教会建築由来のスタイルで、(当時としては)高層ビルに仕上げるため、外壁につっかえ棒みたいな小さな壁(柱のようにも見える)「バットレス」をつけて、建物を補強している。
ロマネスクは、バットレスが発明される前の建築スタイル。ゴチックに比べて背が低く、ものっぺりした見た目になる。
なぜ一橋がロマネスクなのかは不明だが、一説では、伊東忠太がへそ曲がりだから(東大も慶応もゴチック)との見方もある。
西洋のロマネスク建築は、西洋の妖怪や怪物をモチーフとした装飾が行われていることが多いが、ここは日本なので和風妖怪が登場する。100体いるらしい。
建物もいいが、一橋は庭だよ庭 庭を前景に見る講堂ですよ
続いて図書館・時計台棟。1930年竣工。文部省建設課。というか、講堂以外はおおむね、具体的には東西本館と図書館棟が、文部省技師の中根蕃(まがき)の設計だ。
中根氏が何者か、詳しいことは解らないが、伊東忠太の意向(指示)に従って設計したことは強く感じる。
あくまで想像だが、文部省として主体的に設計したのなら、課長名(当時は柴垣鼎太郎か?)でクレジットされているのではないか。
でまあ、講堂に合わせる形でロマネスク風味をかぶせた。
こちらが西本館。
旧門衛所は1931年竣工。モルタル塗、腰スクラッチタイル、下見板張でハーフティンバーの洋風小屋だ。
一橋大は大通りを挟んでキャンパスが東西に分かれており、ここまでが西側。
次は東エリアへ。その中心が東本館。1929年竣工。商学専門部本館として建設された。
戦前の学制では、大学は現在の大学の「学部+MBA」コースのような存在。「学部」だけで終了するのが専門部(専門学校)だ。
こちらもロマネスク風だが、西本館や図書館のように中央部の塔屋がのっぽではなく2階建てに抑えられているので、よりロマネスクっぽく見える。
全体的に東大・本郷キャンパスよりいいと思う。個人の感想ですが。
もちろん、そこを比較するのは、あまりフェアではないのも事実。
一橋の基本ラインを定めた伊東忠太は建築史とデザインの専門家。本郷の校舎設計をおおむね仕切った、同じく東京帝大教授の内田祥三は耐火設計の専門家。
とはいえ、安田講堂や東大本郷南館などは、東大のデザイン専門家・岸田日出刀が手掛けたのだが、正直、あくまで個人的な好みだが、岸田デザインは変化球としては面白いが、直球・横綱相撲ではない気がする。
というか、岸田はその後、自分でデザインするのはやめて業界のフィクサーに転じてしまったので、実力を評価しづらい人ですよね。
いやまあ、伊東忠太も東大のデザイン専門家なんですが、内田より前の世代。伊東系列は、佐野利器~内田ラインの人脈に対して劣勢というか、負けたというか、ですよね。
それもそれとして、庭のつくりも東大に勝っているし、やはり企業との密接な関係のおかげか、校舎の補修・改修・維持管理費は明らかに一橋の方が金満体質を感じざるを得ない。
つまり、校舎のデザインも庭も、細部の施工費もその維持管理費も、すべて一橋の勝ち。
ではないだろうか?
交通メモ
一橋大(国立キャンパス)
住所: 東京都国立市中
中央線国立駅から徒歩10-15分ぐらい。国立は西武鉄道系の不動産会社「箱根土地」が郊外型ニュータウンとして開発した。文教都市として売り出すため、一橋が誘致された。ライバル社の東急は、大岡山~田園調布エリアの開発のため、浅草にあった東工大を誘致した。