坂本龍馬は学歴エリート 

 

  

イギリス人に「坂本龍馬って、どんなヤツなんだい?」と聞かれたら、どう答えますか?

 

僕だったら、こう答えます。

 

「イギリス流にいえば、金でバロネットの爵位を買った大富豪の一族に生まれ、ハーバードのロースクールに留学して編集長に。卒業後はマッキンゼーで経験を積んでからグローバルマクロのヘッジファンドを経て、有力政治家の顧問に収まった、みたいな感じかな」

 

何を言っているのかわからない?

 

まあ、お聞き願いたい。

 

坂本龍馬は準貴族

 

小説では「土佐藩の下級武士の生まれ」と描かれがちな坂本龍馬ですが、実際は違います。

 

土佐には「才谷屋」という豪商一族がいたんですが、その6代目当主が藩に多額の政治献金を行い、長男に「郷士」の称号を出してもらいました。

 

この長男が坂本家の初代。才谷屋は次男が後を継ぎました。長男は武士となって、才谷屋一族の「箔付け」担当となったわけです。

 

「武士が親せきにいる」というのは、「ただの商人の一族ではない」というアピール材料ですから。

 

さてこの「郷士」という資格、一体どれぐらいエライものなのか?

 

江戸時代の武士の階級制度を説明すると、一番上が「上士」でした。

 

戦場では馬に乗り、将校として部下を指揮する人たち。由緒正しい家系図を誇る、いわゆる西欧の「貴族」です。

 

その次が「郷士」。

 

これは藩によって微妙に異なるのですが、基本的には先祖が土着の有力武士だった豪農や、代々続く豪商など地元の有力者に与えられる称号です。

 

まさに欧州のバロネット(準男爵)みたいな感じの、世襲の「準貴族」です。

 

その下に位置するのが「下士」。

 

馬に乗る資格はなく、戦場では足軽(=兵士)を束ねて指示を出すのが仕事。現代の軍隊で言うところの下士官です。

 

一応、武士ではありましたが、西欧では「平民」にあたる身分です。

 

郷士って、どれぐらい偉いの?

 

この「郷士」という階級、歴史小説では「上士の前ではひざまずかなくてはならないなど、屈辱的な扱いを受けていた下級武士」と描かれています。

 

全くその通りなんですが、でもそれは、相対的な問題です。

 

たとえば上士だって、「藩主の前では土下座しなくてはならない、屈辱的な扱いを受けていた人々」です。

 

藩主だって、将軍の前では土下座です。屈辱的です。

 

例えば、将軍の行列が江戸市内を練り歩いたとします。

 

そんな時、藩主は屋敷の門前まで出てきて行列を待ち構え、将軍様が通過するときは、地べたに土下座しました。

 

その将軍様だって、天皇の前では土下座です。使用人みたいな扱いです。

 

事実関係として言えるのは、日本の人口の上位7%が武士で、その中でも上士に次ぐランクである郷士は、間違いなく、「上級国民」だったということです。

 

それから坂本家の場合、郷士の中でも特に上位に位置していました。

 

一族の経済力を生かし、坂本家は「白札郷士」の一族からの入り婿を取りました。これが竜馬の父親です。

 

白札郷士は土佐藩の独自制度の一つで、「郷士だけれども、上士と同じ待遇が受けられる」という階層なんですね。

 

イギリス流に言えば、アイルランド貴族(英国貴族院に議席は持てないが、貴族としての儀礼待遇は受けられる)みたいなものです。

 

そんな父を持つ龍馬は、社会儀礼上は「貴族(白札郷士)の血筋を引くため、準貴族(郷士)の中でも特に上層の人間」という身分でした。

 

坂本龍馬の学歴は

 

そんな龍馬は地元道場で、土佐藩御用達の小栗流剣術を学び、目録を得ます。そして藩から「剣術修行の旅に出る許可」をもらい、江戸に旅立ちます。

 

これはいったい何を意味するのか。

 

江戸時代の出世すごろくを、少し説明しましょう。

 

現代では良い大学で優秀な成績を収め、そして就職戦線に挑むわけですが、江戸時代も事情は同じです。

 

学歴と言う観点で見てみます。

 

当時の武士にとって「学ぶ」と言えば、「剣術」か「四書五経・六韜三略(=行政学と兵法)」のことでした。

 

藩校や有力な民間道場、学問塾に通います。

 

そこで成績が良いと、「あいつは出来るやつだ」という評判が立ち、藩庁に「召しだされる(=出世ポストへの異動通知が来る)」わけです。

 

ま、ここも現代と同じなのですが、藩校(=国公立大)に通うのもいいのですが、有力OBが多い民間道場・塾(=私大)のほうが出世ルートとしては有力な場合もあります。

 

剣の腕や四書五経の知識が実務にどう役立つのか、疑問に思うかもしれませんが、それを言ったら現代の大学の授業も実務にどれだけ役立つのかは微妙ですから、突っ込まない方が良いでしょう。

 

そしてその次。

 

「修業の旅の許可が出る」というのは、藩庁人事部から「公務員である藩士に対し、海外留学のための休職を認める」という辞令が来る、ということなのです。

 

剣術修業と言っても、野宿しながら道場破りを繰り返すわけではありません。

 

藩発行の身分証を持って江戸に向けて出発し、道すがら他藩に立ち寄って、そこの「修業受け入れ公式窓口」で手続きをし、地域の名門道場の集団稽古に参加させてもらう。

 

そこに通っているのは、他藩のエリート若手社員たち。

 

道場で楽しく汗をかいたあとは、そのまま飲み会に突入。一杯やりながら、交友関係を深めます。

 

江戸に着いたら、これまた名門道場に入門してさわやかに汗を流しながら、他藩から派遣されてきた留学生や幕府の幹部候補生たちと仲良くなって、人脈を作ります。

 

時には他の道場にも「出稽古」に行って、やっぱり人脈作りです。

 

ようするに、海外の名門大学院(剣術道場)でMBA(免許皆伝)を取り、その過程でビジネス人脈をひろげるのが、剣術修行の目的だったのです。

 

ところで郵便局も電子メールもない時代、どうやって「他藩の友人」と連絡を取ったの?と疑問に思うかもしれません。

 

実はこの時代、武士だけは確実に文通をする方法があったのです。

 

「どこどこ藩の何々さんあて」と書いた手紙を自分が所属する藩庁の窓口に出すと、そこから藩の江戸屋敷に運ばれ、どこどこ藩の江戸屋敷に転送されます。

 

時間はかかるけれど、確実に相手に手紙が届きました。

 

江戸の名門校に留学した龍馬

 

そんなこんなで、坂本龍馬も剣術修業の旅に出ます。

 

龍馬の場合、藩(会社)から「留学のための休職(=正社員の身分をキープし、企業派遣枠で留学)」は認められましたが、「学費は自分持ち」でした。

 

会社負担で留学させてもらえるほどの成績ではなかったようですが、富豪一族ですから、そこは問題ありません。

 

で、江戸に到着して入門したのは、小千葉道場です。

 

江戸の三大名門道場といわれた大千葉道場から独立した新興道場ですが、なかなかの有名校です。

 

現代風に言えば、ハーバードやMITにはかなわないけれど、ベスト10に入る有力MBA大学院、といったところでしょうか。

 

例えばこの道場、鳥取藩の師範を務めていました。

 

「鳥取藩の師範?なにそれ?すごいの?」と思うかもしれません。

 

すごいんです。当時の鳥取藩は超名門大企業でした。

 

石高(企業で言えば売上高)で言うと、32万石。日本で上から13番目の大きさ。

 

長州藩が36万石、御三家の水戸藩が35万石。それに次ぐ規模です。

 

しかも、格式はさらに高い。

 

鳥取藩主は徳川家康の次女の血が入っていたので、外様大名ながら葵紋を下賜され、親藩待遇を受けていました。

 

例えば鳥取藩主は江戸時代後半に入ると、だいたい「従四位上」という称号をもらっていました。

 

毛利とか伊達の様な大物大名でも、基本はワンランク下の「従四位下」で、場合によっては「従四位上」がもらえる程度の扱いなのに、です。

 

とにかく外様大名としては、日本でも五指に入るような名門大企業だったわけです。

 

そんな有力企業の若手エリートが企業派遣されてくるのが、小千葉道場MBA大学院だったわけです。

 

再度の留学で「ランクアップ」する龍馬

 

で、龍馬は小千葉道場を卒業し、土佐に戻って地元・日根野道場の師範代になります。

 

ざっくりいうと、地元有力私大の准教授ですね。

 

上を目指す龍馬は、藩庁に再度の修業(=海外留学)願いを出します。

 

そして再び、小千葉道場に入門です。

 

ここで龍馬はかなり精進したようで、「塾頭」になります。

 

これは、すごいことです。

 

現代でたとえると、アメリカの一流大学のロースクールで、学内研究誌の編集長になるようなものです。

 

え?わかりづらい?そうですね。説明しましょう。

 

アメリカの名門ロースクールでは、「総合的に最も優秀」な学生が、学内研究誌の編集長を務めるという慣習があります。

 

そして「編集長経験者」という経歴は、政治家や高級官僚、それに関連する分野の有力企業を目指す場合、一生ついて回る「自慢の経歴」になるのです。

 

例えばオバマ大統領。彼の出世の糸口は「黒人として初めて、ハーバード・ロー・レビューの編集長になった」というところなんですね。

 

ちなみに、龍馬の剣の腕前については諸説ありますが、塾頭を務めたということは、成績だけでなく、人間力も評価されたということになります。

 

ロースクールの編集長というのがまさにそれで、成績だけでなく、人望や実務力、政治力など総合的に優れた学生が、選挙で選ばれるのです。

 

「塾頭」も同じ。人事面接で「ガクチカ」を聞かれたとき、「小千葉で塾頭やってました」と答えれば、どんな人気企業でも内定間違いなしです。

 

凱旋帰国と社内抗争、そして退職

 

そんな「学歴メダル」をぶら下げて地元に戻った坂本龍馬。親戚の武知半平太と共に、藩政改革運動に乗り出します。

 

この武知半平太ですが、彼は白札郷士の出身で、江戸・士学館道場の塾頭経験者。

 

士学館は江戸の三大道場の一つで、その塾頭と言ったら、まさにバラク・オバマに匹敵するスーパーエリートです。

 

さて、一応の説明ですが、江戸時代の人事制度では、家老(=企業の役員級ポスト)は上士しかなれませんでした。

 

ですがその下、執行役員や部長・課長クラスなら、郷士や下士でもなれなくはありませんでした。

 

例えば40万石級の某大名の回顧録によると、「家老は大所高所から意見を言うのが仕事で、具体的な政務には関与しなかった」「実務トップとして『執政』を複数人置いた」「執政は中・下級の家柄だけでなく、部屋住みから抜擢した前例もあったため、自由に任命することができた」ということです。

 

かといって家老は無力というわけではなく、時には主君を「押し込め(=強制退任)」ることもありました。

 

つまり反主流派の役員(上士)と中堅・若手の「切れ者(郷士)」が結託すると、一定の社内発言力を持つことも可能だったのが江戸時代なのです。

 

この時期の土佐藩の場合、藩主(社長)の山内容堂は末流の分家から養子に入って藩主になったため、必ずしも役員会から支持されているわけではありませんでした。

 

にもかかわらず容堂は、お気に入りの吉田東洋を執政に任命して、役員会を無視した企業経営を行ったので、社内は大混乱です。

 

そこで武知・坂本といった若手社員のホープが「社内改革」を訴え出たわけです。

 

しかし残念ながら容堂が巻き返しに成功し、龍馬は「こんな古くさい会社、何を言っても無駄だ」とばかりに辞表をたたきつけます。

 

学歴人脈で転職

 

そして江戸に上り、松平春獄の紹介状を手に、勝海舟の元を訪れます(斬りに行った、というのは俗説です)。

 

これまた、むちゃくちゃな話です。

 

現代風に言うと、「無職の若者が、元経団連会長の大物経営者の紹介で、霞ヶ関の有力官庁の事務次官に会いに行った」ってことです。

 

春獄は親藩・福井藩の藩主で四賢候と呼ばれた、天下のご意見番的な超大物。

 

今の感覚で福井というと、失礼ながら地味な印象を受けるかもしれませんが、当時の常識では、「福井藩はある意味、将軍家に匹敵する名門」でした。

 

将軍家は徳川家康の三男の子孫ですが、福井藩は次男の血統だったからです(途中で養子が入りましたが)。

 

そんでもって勝海舟は軍艦奉行、つまり海軍省次官と言ったところでしょうか。

 

海軍(=蒸気船)は西洋科学文明の象徴みたいなハイテクの塊ですから、デジタル庁とか宇宙軍とかのトップみたいな、とにかくすごい分野の親玉と言った感じです。

 

なぜ無職浪人中の龍馬が、春獄のような大物に紹介状を書いてもらえたのか。

 

からくりは簡単です。小千葉道場は福井藩の「師範」も請け負っていたのです。

 

つまり株式会社福井藩は、たくさんの幹部候補生を小千葉大学院MBAスクールに留学させている。

 

そんな太いコネがあったのです。

 

米国のロースクールに例えてみてもいいでしょう。

 

ハーバード・ロー・レビューの編集長なら、ハーバード卒の政治家や高級官僚にいくらでも面会のアポが入ります。

 

会いに行って「仕事を紹介してください」と頼めば、いくらでも良いポストを回してもらえます。

 

このあたり、洋の東西を問いません。

 

でまあ、龍馬と海舟は意気投合。

 

龍馬は海舟の下で秘書室長みたいな仕事を始めます。政官財の要人のもとに、海舟の代理として派遣され、人脈を広げていきます。

 

言うまでもなく、小千葉の塾頭という学歴メダルも武器になったでしょう。

 

西郷隆盛と知り合いになるのも、まさにこの時期。海舟の使者として派遣されたのがきっかけです。

 

まあそんで、自分でも相場を張ろうと亀山社中(=グローバルマクロのファンドというのは強引すぎ?)を設立し、さらには薩長連合に向けて動き出す。

 

というわけです。

 

もし坂本龍馬が現代に転生したら、留学してからマッキンゼーやボスコンとかに就職し、やがて独立して口八丁手八丁のコンサルタントとして国際的に大活躍。そんな気がします。

 

って、解釈はどうでしょうか?

 

おまけ・武士の「年収」は平均1000万円

 

ついでに「江戸時代の武士の平均年収はどれぐらい?」かを、計算してみました。

 

ググったところ「500万円」というネット記事が出てきたのですが、「年収」と「手取り」がごっちゃになった上、税金や住宅ローンのことが無視されていたので、自分で計算してみたわけです。

 

さて、問題の記事には、こうありました。

 

『平均的な武士は100石取りで、これは手取り35石を意味。35石は現代の金銭価値に換算すると500万円なので、年収500万円』

 

歴史学者さんの解説だったのですが、あまり現代経済には詳しくないようです。

 

まず、手取りと年収は違います。

 

年収は総支給額。そこから税金と社会保険料を引いた額が手取り額です。

 

つまり、平均的な武士の「年収」ではなく「年間手取り額」が、500万円なのです。

 

さらに江戸時代、武士は社宅暮らしでした。土地建物は、お殿様からの貸与(補修費は自分持ち)だったのです。

 

現代日本の平均では、年間手取り額の3割が住居費にあてられています。武士の場合、それが自腹ではなく、会社支給だったわけです。

 

では、住居費と税金・社会保険料のことを計算に入れて逆算してみましょう。

 

するとズバリ、現代日本で年収1000万円をちょっと超えたぐらいのサラリーマンが、江戸時代の平均的な武士(100石取り)と同じ経済力になります。

 

現代の年収1000万円は、税金・社会保険料を差しひいた手取り額では700万円ぐらい。

 

さらにそこから住居費を3割引くと、500万円を切ります。

 

しかも、江戸時代には消費税はありませんでした。

 

「消費税無し・その代わり住宅補修費は自腹」という点を計算に入れると、「武士の平均年収は1000万円」と言ってもそれほど間違いないでしょう。

 

現代日本では年収1000万円は、全国民の上位5%ぐらいとされています。

 

江戸時代の武士は全人口の7〜8%ですから、「平均的な武士は年収1000万円超」というと、やっぱり武士って「上級国民」だったんだなあ、ということが伝わってきます。

 

ちなみに、武士の体面を守った暮らしをするには、300~400石ぐらいの家禄が必要だった、という説があります。

 

これまた累進税率を適用して逆算すると、年収4000〜5000万円といったランクになります。企業経営者や医師・弁護士みたいな感覚です。

 

そういった人々の暮らし向きが、日本の支配層たる「お武家様」にふさわしい暮らし向き、といわれると、何となく「そうだよな」と思ってしまいます。

 

なお、「武士は小者や女中を雇わなくてはならないので、手元に残る金額はもっと少ないはずだ」という反論があるかもしれませんが、それは正直、大した支出ではありませんでした。

 

例えば100石取り(年収1000万円)の武士だと、中間・下男・下女の3人を住み込みで雇うことが多ったのですが、3人合わせて年間100万〜150万円程度の支出でした。

 

現代の1000万円プレーヤーは、代わりに電気・ガス・水道代と車のローンや家電製品の支払いが発生します。ざっくり、大して変わりない額です。

 

「そんな安い給料で人が雇えるの?」と思うかもしれませんが、ヒントを一つ。

 

日本より給与水準が高い現代某先進国の場合、住み込みのお手伝いさん(外国籍)の雇用相場は「月5万円+個室(8平米)貸与+食事支給」でも「かなり好待遇」だそうです。

 

某先進国の知人から酒飲み話として聞いた話で、本当かどうか知りませんけどね。

 

蛇足・大名とサンピン侍の年収は?

 

蛇足ですが、これも多くのネット記事やテレビでは間違いだらけのことを言いがちです。

 

まず大名の年収。

 

びっくりしましたが、某テレビで「1万石の大名は年収10億円!」みたいなことを言っていました。

 

その理屈でいうと、「日本の首相は年収100兆円(=日本政府の税収)」ということになります。

 

じゃあ、大名の給料は実際どうなんだというと、これまた答えづらい。

 

というのも、基本的に大名が自由に使えるポケットマネーは存在しない。というか、大名に自由なプライベートはないわけです。

 

つまり現代の皇族と同じ。皇族関係予算を給料というのはちょっと違うしね、ってところです。

 

とまあ、逃げを打ちましたが、もう一つは「サンピン侍」。

 

良く「下級武士は生活が厳しかった」という例として、「サンピン侍=年収が三両一分(サンピン)」が挙げられます。

 

三両一分は30万円ちょっとぐらい。

 

そういわれると、下級武士は大変だったんだなあ、と思われそうですが、実はサンピン侍は武士ではありません。

 

武士に雇われた帯刀の使用人で、半年〜1年契約の有期雇用契約で働いていました。下級武士の次男坊や三男坊がなることが多かったようです。

 

身分的には町民よりは上だけど、武士とはみなされない(地域にもよりますが)感じです。

 

じゃあ、本当の最下層の武士の給料はどうか?

 

例えば30俵2人扶持だと、年間手取りで150万円ぐらいです。

 

まあ現代風に言えば、年収200万円・社宅完備、ってとこですね。

 

とはいえ、こういう人は「特に担当業務無し」ってことが多かったので、普段は副業に励むことで、収入を得たわけです。