亜細亜大学(私立・東京都武蔵野市)

 

(文章と写真を入れ替えました)

 

2011年から始まったキャンパス再開発を終えた、新しい姿を見に行った。

 

と言いつつも、お勧めは解体を免れた?レトロな8号館(旧図書館)だ。

 

 

いつ取り壊されてもおかしくないので、今のうちによく見ておこうというのが今回の訪問テーマだ。

 

交通手段はJR中央線。オレンジの快速列車に乗って西へ。武蔵境で降りる。

 

北口にはアジア大学通りという、そのものズバリの道があるから迷子の心配はない。

 

 

10分も歩けば大学だ。

 

 

入り口を入ると高層ビルに囲まれた、やや息苦しいプロムナード。

 

 

そこを抜けると突然、開放的な広場に出る。

 

 

古い校舎を一挙に整理して、見晴らしの良い広場と新しい建物をそろえた。

 

 

白く、輝く。

 

 

残された古い校舎も白く輝いている。夕日を浴びれば夕日色をそのまま映す。

 

 

それにしても3号館は耐震補強なのか、それとも初期仕様なのか。気になる。

 

 

と、ここまでがキャンパス東側ゾーン。

 

広場を抜けると、西へ進む大通り。

 

 

公道を挟んで通りは続き、キャンパス西側エリアに突入する。

 

左手に8号館。右には結構なスケールの広場の向こうに体育館だ。

 

 

さてメーンディッシュの8号館は1969年落成。横長の中層建築物で、ギリシャ神殿をイメージした白い柱が印象的なファサード前面を飾る。階段を上った先に、ややサーモンピンクがかったベージュ色の本体が控える。

 

 

中央階段を上りきった先には、螺旋階段を納めた塔が二本、そびえ立っている。

 

 

メーン階段が建物右側に寄っている分、バランスを取るかのように、白い飾り板が階段右手に取り付けられている。

 

 

設計は武蔵工業大学(現・東京都市大学)の笹原貞彦教授。あとで解説するが、東急グループつながりで頼むことになったのだろう。

 

設計のコンセプトは、以下の通り。

 

東エリアから大通りを直進して西エリアに到着。左手にはギリシャモチーフの知の神殿。

 

 

神殿の前には掲示板が並べられ、大学の情報センターとしての役割も。

 

で、神殿と向き合う形で、健全な肉体を鍛えるための体育館。間にはたっぷりとした広場をセッティング。

 

 

なお、かつては西エリアには旧一号館があった。こんな感じ。

 

 

8号館と旧1号館は直角に交わり、城壁のようにキャンパス敷地を外界から区切り、静かな空間を作り出していた。

 

 

今は空き地。

 

その後の予定は明示されていないが、おそらく公園風に整備され、「市民や街に開かれたキャンパス」を目指すのだろう。

 

旧1号館は味があった。正門の外から見ると、単に古ぼけた校舎建築にしか見えないかもしれないが、年季が入っていることそれ自体が価値とも言える。

 

 

逆向きに、8号館前の広場から旧1号館を見ると、なんだかおもしろみがある顔つきだ。

 

階段などのある中央部から両翼に教室が延びる作りだが、中央部の窓が互い違いに設けられていたり、最上部が斜めにカットされていたりする。

 

それはさておき、この大学のキャンパス内配置はどうにもアンバランスだ。

 

校舎や研究棟など大学機能のほとんどは東側に押し込められ、西側には8号館と体育館、寮の一部、そして興亜神社が残るのみ。

 

人口密度が高く、高層建築が林立する東に対し、西は低層で静かで広々としている。

 

 

キャンパス面積ははっきり分からなかったが、7~8万平米程度だろう。学生数は7000人弱。とはいえ、東西のアンバランスな配置が理由で、数字以上に人口密度が高くもあり、また閑散としていたりもしたりもする。

 

 

大学グッズは生協で売っている。そんなに充実しているわけではないが、校章入りボタンや学部ごとのバッジがあったりするのは珍しい。

 

元々は興亜の志に燃えて作られた教育機関だ。東側の密度の高さは日本を、西側の広さは広大な大陸を表現したと考えるのは、もちろん、うがちすぎにもほどがある。

 

 

の、ではあるが、この大学の歴史はなかなかスリリングだ。

 

最新の記念本「学園70年史」では全く触れていないが、40年史や50年史を読んでみると、ワオ、って感じだ。

 

 

歴史をさかのぼると、戦前に首相を務めた平沼騏一郎や陸軍皇道派の首領・荒木貞夫大将ら、いわゆる国粋主義右翼人脈にたどり着く。

 

彼らが「東亜・南洋の発展を指導する憂国青年を育成」するため、国士舘専門学校(現・国士舘大学)に間借りする形で、1939年に作った「国士舘専門学校興亜科」が出発点だ。

 

 

大東亜戦争が始まった1941年、興亜科は国士舘から独立し、興亜専門学校(現在の大学に相当)となった。

 

40年史によると、戦時下で文系大学の新設は認められていなかったが、「まさに異例の措置」として開学できたという。

 

その教育は「全塾制(=全寮制)」で朝5時半から夜9時半までみっちりつまった、一言でいえば「太鼓に始まり太鼓に寝る」「軍隊のほうが楽」。何というか、いわゆる「男塾」(宮下あきら)みたいだ。ワオ!

 

戦後は、いったん緊急避難的に「日本経済専門学校」と名前を変え、1950年に日本経済短大に改組。

 

 

まあとにかく、関係者が軒並みワオ!って感じなので、米軍がいる間は表立って活動しにくい感じだったようだ。

 

公職追放が解除され、占領軍もいなくなった1955年、ついに名義をもとに戻して4年制大学に昇格。亜細亜大学となった。

 

 

戦後はなかなか経営に苦しんだが、これまたワオ!な大物の仲介で、東急グループ総帥の五島慶太氏を理事長に迎えることになり、五島育英会のテコ入れで経営は安定。

というわけで、同じく五島系の武蔵工業大学とは縁があった、というわけだ。

 

  交通メモ

 

亜細亜大学(私立)

 

住所: 東京都武蔵野市境

 

新宿駅から中央線快速で20分。武蔵境で下車。そこから歩いて15分。少々歩くが、武蔵野大や東京農工大が近くにあるので、ご一緒に。小金井公園に出て、江戸東京たてもの園を目指すのもおすすめだ。