108階の住人 | モギーヌのブログ

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壮大なる暗示に気付く

ある病気に対する見解として




例え膨大な医学の知識があっても、今現在のデータを読み『知識』として持っていなかったり、データを読む力がそもそも無ければ、正確な分析には近づくことができない。




逆も然りで、いくら膨大なデータを持っていても、医学の知識が無ければ、いくらデータを分析し「何でだろう?」と考えたところで、知識が無いのだから的確な分析に近づく訳が無い。




膨大な医学の知識やデータを持っていたとしても、政治の知識がなければ、それもまた近づく事はない。



膨大な医学やデータや政治の知識を持っていたとしても、歴史の知識が無ければ、これまた近づく事はできない。



膨大な医学やデータや政治や歴史の知識を持っていても、偏った知識、すなわち『教えられただけの知識』では意味が無く、先ずは洗脳が解かれていなければ意味が無い。








これを人間の身体で例えると分かりやすい。



胃腸の事だけ詳しくても、肝臓や腎臓の事を知らなければ優れた医者とは言えない。



胃腸や肝臓、腎臓の事に詳しくても、その他の臓器の事を知らなければ優れた医者とは言えない。



臓器を全てを知り尽くしていても、筋肉や骨、血管や神経について知らなければ、優れた医者とは言えない。



それらを知り尽くしていたとしても、その『身体』を作る『食べ物』について知らなければ、優れた医者とは言えない。



身体と食べ物について知り尽くしていたとしても、我々を取り巻く環境、身に付ける物、体内外問わず影響を与えるもの、感情(つまりは心・精神)について知らなければ、本当に優れた医者とは言えない。



勿論上記の全てに詳しくても、まだまだ先がある。










『知識が増える』という事を、よく例に挙げるビルの例えで言うならば『高層階』に上がっていく事を意味する。



先に説明したように、知識が大局的な見方を与え、より複雑な分析を可能にするからである。




ところで、僕は今の世の中で騒がれているものについて若干否定的な事を書いたりしているが(実際は世の中が否定している根の部分を肯定しているだけ)、これはある意味『間違いかもしれない(まぁ間違いだろう)』と思いつつ書いている。




何故なら、例えば「これは明らかにおかしい」という77階の視点で書いているが、僕の中に存在する108階の視点からすれば、「洗脳されて喜んで注射を打っている人というのは、それはそれで幸せなのでわざわざ余計な情報は与えず放っておいて良い」とも言えるのだ。



もちろん6階の住人からすれば、知っている情報を教えないのは「酷い奴」ともなり得るが、それはあくまで6階までの知識しか無い者の考えに過ぎない。




例えば、余命僅かな7歳の少年がいたとして、わざわざサンタクロースの正体を教えるだろうか?



「君が生まれたのはお父さんとお母さんがベッドの上で裸になって、これこれこういう事をした結果妊娠したものなんだ」と教える必要があるだろうか?



知らなくて良い、知らない方が幸せ、という事もあるのだ。



逆に言えば『知ってしまう不幸』というのが世の中の真実に近いかもしれない。



だが、そこでめげずに更に深く知る事で『知ってしまう不幸』というのは幻だと知る事もできる。




訳が解らないかもしれないが、つまりは『何でも良い』という事だ。(なんじゃそりゃ)



言っちゃっても良いし、言わなくたって良い、書いても良いし、書かなかったとしても良い。



余命僅かな7歳の少年に真実を話しても良いし、話さなくても良い。



結局は『そうしたいようにしているだけ』なのだからくまクッキー