このブログ内でも何度か歎異抄について書いているが、別に僕自身何かしらの宗教を信じている訳でも無いし、推奨している訳でも無い。
しかし、この歎異抄の『悪人正機』については全く同感だと思っている。
『ストーリー』的に言うならば、
今現在、人類は『狭間』にいる
『気付いた人』『気付いていない人』
『洗脳が解けてる人』『解けていない人』
『洗脳が解け、気付いた』人であっても
この『ストーリー』の中で『私』という存在は、毎日洗脳されている人に囲まれモドカシイ気持ちになっていると思う
そして『狭間』は一つではなく、段階が無数にある
『私は気付いている』と思っていたとしても、その上の段階にいる者からすれば『まだ気付いていない人』に見え、その上にも、そのまた上にも…といった感じだ
下の方の『気付き』は主に『正義感』である。
誤解の無いように言っておくが、下が駄目、上が良いという事ではない
分かりやすいように表現するとそうなるというだけである。例えばビルの下の階からは窓の外から見える範囲が狭いが、上の方の階からは遠くまで見渡す事が可能になる
そして、『正義感』にも下の方から上の方まであり、段階は幅広い
下の方か上の方かの違いは『自分が悪人だと気付いているか』どうかである
先程『ビルの例』を出したように、上の階は下の階を含んでいる(下の階の景色を知っている)。
つまり、『自分が悪人だと気付いている人』は、『自分が善人である事も知っている』のである
故に「何故自分が悪人であるか皆目見当も付かないという人」は、当然下の方なのである
『罪悪感が必要』という事ではない
『そういうもんだ』と気付くだけで良い。
救いようの無い人達を救う、又は救わない、
救いようのある人を救う、又は救わないことが善いのか悪いのか、それは『人間』には解らない(ここで言う救う・救わないは人間的な理解によるもの)
というか、答えは無い
結局誰もが『救われる』のだが、金魚すくいを思い浮かべると分かるように、『上』の方が『すくいやすい』のである