ごしきづかこふん。
兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目。
山陽電鉄霞ヶ丘駅で下車。
線路沿いの細い道を東へ5分ほど歩きます。
行き止まりを左折すると、
ハッとする景色が目の前にありました。
古墳時代に来たようです。
美しく整備されています。
右手の芝生の上段の黒い石は「葺石」(ふきいし)です。
発掘で出て来た当時のものがきれいに並べられています。
この黒石は分析の結果、
淡路島の東側の海岸で産出するものであるとわかったそうです。
おととい訪ねたときは
芝刈り機で何人もの方が芝を刈っていらっしゃいました。
~五色塚古墳は、
淡路島を望む台地の上に築かれた前方後円墳です。
全長は194mで兵庫県で一番大きな古墳です。
周囲を深い濠と浅い溝で二重に囲い、
西側には円墳で直径70mの小壺古墳が築かれています。
この五色塚古墳は、全国的に見ると
40番目前後の大きさですが、
同じ時期のものだけと比べると
奈良県北部の大王墓(佐紀古墳群)と肩を並べる大きさです。
4世紀の終わり頃、この古墳に葬られた人は
明石海峡とその周辺を支配した豪族だと考えられます~
~五色塚古墳に関する最初の記事は、日本書紀に見られます。
「仲哀天皇の偽(にせ)の墓で、葺石は淡路島から船で運んできた」
と書かれています。
しかし、ほかの古墳と同様にすべて丁寧に造られていることや、
人が葬られる石室の石材が出土していることから、
偽物とは考えられません~
石段を上がります。
後円部への石段を上がります。
上がりながら、
自己紹介をさせていただきました。
まるい墳頂部のはしっこまで来ました。
出土した埴輪の複製品がぐるりと飾られています。
北の景色は六甲山地方面ですが、
家や団地、マンションがびっしり建っていて
写す気がしませんでしたσ(^_^;)
墳頂部を歩きながら
イザナギ命神様と秦河勝様に御挨拶と祝詞、
素盞鳴尊様の詞、龍神祝詞を唱えました。
島根県安来市の比婆山のイザナミ命神様のところへ
少し前に行かせていただいたことなども話させていただきました。
石段を下ります。
前方部は緩い傾斜で端に向かって上がっていました。
前方部のはしっこまで来ました。
淡路島がとても近くに見えました。
~築造当時は海を見下ろす位置にあたるので、
明石海峡を中心とした海陸交通要衝の地を支配した
人物が葬られているのではないかと考えられます~
前述した日本書紀の「にせ墓」とは・・
~仲哀天皇の死後、二人の皇子、
麛坂皇子(かごさかのみこ)と
忍熊皇子(おしくまのみこ)が
神功皇后に政権を握られることを快く思わず
(二人の皇子は神功皇后の子ではない)、
朝鮮遠征から帰国する皇后を迎え討つために
軍船を明石海峡に浮かばせたが
そのままではクーデターが露見するので
仲哀天皇の墓を造るための葺石を淡路島から
運搬する船にみせかけるため、この墓を造った~
つまり五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓で、
実は誰も埋葬されていない。。。。
エェ━(´Д`υ)━・・・
前方部の右端から後円部を見ます。
左端から見ます。
古墳の表面は約223万個の葺石で覆われ、
各段の平坦面と墳頂部には出土した埴輪のレプリカが
約2000本立て並べられています。
左手になだらかな丘が見えます。
円墳の小壺(こつぼ)古墳です。
すぐ近くから写しました。
上空からの写真をお借りしました。
前方後円墳の右に寄り添うように円墳があるのがわかります。
古墳の管理事務所でいただいたパンフレットに
築造当時の地形や様子がCGで再現されたものがありました。
他の多くの古墳と同様に
木々が茂っていたそうですが、
第二次世界大戦中に松を切り船材としたり
その根から油を採取し、また
戦後は食糧難から畑として開墾されたりして
古墳は荒廃してしまいました。
昭和40年から10年の歳月をかけ
五色塚古墳を守ろうと
発掘調査と復元工事を行ったそうです。
吉備津神社のあたりにも
大きな古墳はたくさんありますが
行ってみたいと思ったことはありませんでした。
つい最近ですが、
瀬戸内の旅ガイドで知ったこちらの古墳は
きれいに整備されていて、
淡路島の指呼の距離にある古墳ということで
実際に足を運んでみたいと思いました。
後円部の方は、六甲山地~
若狭湾の方へ向いているようです。
イザナギ命神様、
秦河勝様の
益々の御開運と御繁栄を心よりお祈り申し上げます。
<(_ _)>