忘れていると云えば、自分の母親が死んだのに覚えていないんだろうと云ってやっても良かったが、やめておいた。
代わりにくせ毛の男は云った。
「記憶喪失の人間を見るのは初めてだが、覚えていないと自分で思うのか?」
少年は大人びた笑みを浮かべた。
「貴方が云ったから」
「何のことだ?」
メインの料理が運ばれてきた。牛肉の煮込み料理だった。くせ毛の男はナイフとフォークを取り上げたが、鼻腔をかすめた匂いにふと手を止めて、取り上げたものを元に戻した。
少年は恐らくすっかり冷たくなったであろうスープをひと口飲んだ。
「カミュが『云うな』と云ったんでしょう。貴方のそのケガは痛そうだけど命にかかわるようでもないし、それをカミュがわざわざ『云うな』と云わないと思います。だから、俺は他に何を忘れていますか?」
くせ毛の男は、ふーん、と曖昧に云った。
極寒の川で泳いだり、いきなり人を殺しかけてみたり、何もかも忘れてしまったりかなり滅茶苦茶だと思っていたが、まともなところもあったらしい。
少年の、返答を待っているがどこか醒めたような碧い眼を見つめ返した。綺麗な顔だと思った。細い顎に完結するくっきりとした輪郭の中の各パーツの形状と配置が申し分ない――というだけなら、いちいち感心することもなかっただろうが、思わずじっと見てしまうような際立った印象がある。この印象が何からくるのかと云えば、恐らく違和感からだろう。視覚的に完璧なのに違和感があると云うのも妙だが――。
昨夜の美しい女の死体を再び思い出し、その眼を思い出した。あの、この世に何も像を結ばない、別の世界に向けられていた眼。
死んだ女にそっくりなせいだろうか。それが生きてしゃべっているから、何か変に気にかかるのだろうか。
男が黙ったままでいると、少年が先に口を開いた。
「あの・・・俺はシステムで知らないうちに・・・誰かを・・・殺してしまった?」
くせ毛の男のとりとめのない思考は中断した。
男は、少年がずい分とつまらない心配をすると思いかけて、それはそれで重大なことだと思い直した。
話をでっち上げて返答を試みた。
「何を気にしているのかと思えば。本当に覚えていないんだな。きみがシステムを使った時、周りに誰もいなかったよ。きのうは、きみが支社へ来ないから、カミュと一緒に探しに出ていた。夜、きみを見つけたとき、きみは橋の上にいた。カミュは橋の反対側にいて、俺より少し遅れて来た。きみは俺に気が付くといきなり低温系を見舞った。俺が首を持っていかれたかと思って慌てているうちに、きみが川に落ちた。すぐ病院へ行かなきゃならなかった。きみは落ちた時に頭でも打ったんだろう」
「それは、どこの橋ですか?」
少年が疑るように訊いた(いかにも嘘っぽい説明なので無理もなかった)。
くせ毛の男は、「さあ」と関心のない声を出した。
「どこの橋だか知らないよ。車でしばらく走ったところだ。俺はきのう初めてこの国に来たからね。きみこそ職場へ顔も出さずにどこをほっつき歩いていたんだ」
「・・・何故、カミュは・・・」
「わざわざ云うほどのことじゃないと思ったんじゃないかな。俺は他所の人間だからね。気になるならカミュに訊けばいいじゃないか。そんなことより、もっと他に云いたいことがあるんだ。云っていいかね?」
少年は頷いた。
男はおもむろに皿の上の肉料理を指差した。
「これはトマトが入っているから、食べられない。ソースにトマトペーストやなんかを使っているだろう」
「・・・トマト?」
少年はとっさに意味が分からずにおうむ返しに云った。
くせ毛の男は悪びれずに続けた。
「生っぽいトマトはダメなんだ。きみが食べてくれ」
「・・・生っぽい?」
少年は男のバカバカしい申告のせいで、追及する気が削がれたようだった。
「さっき訊いたじゃないですか?」とひと言文句を云ってから、ウェイターを呼んだ。