白 9 | Glaciation Limit

Glaciation Limit

-When a blaze occurs in the driftless area-


 グラード商事本社での会議がそろそろお開きになるころ、くせ毛の男とその金髪の友人は、この場所――「アートコレクション展~印象派からエ・コールド・パリまで~」と銘打たれた、滞在先のホテルの地下2階の催し物会場――へ移動していた。

 金髪の彼は半ばひきずられるようにして来た。くせ毛の男が強引だというのもあるが、本人が状況を積極的に選択しようという気にならなかったせいもある。

 先刻広場で起こったこと――自分が起こしたこと――は、全く覚えがないわけでもなく凍った滝やらを確認した時点で概ね承知していた。

 ジーンズの後ろのポケットにロザリオが入っていて、それが何なのかも分かっていた。

 しかし、それ以上考えたくなかった。また広場のときのように、みっともなく取り乱さないという自信がなかった。

 くせ毛の男は、そんな友人の気分をお見通しということなのか、場合によっては何かしらの責任の一端を感じているのか、ホテルに到着して以来、他愛のない会話に終始した。他愛のないことの極めつけに、この催し物会場に来たというわけである。

 ホテルの「大宴会場」の一つである体育館ほどの広さの会場はパーティションに複雑に仕切られ、多くの絵画が飾られて美術館風に仕上げられていた。くせ毛の男曰く、「見たい絵がある」とのことで来たのだが、絵画を嗜む趣味があると聞いたこともないので、夕食時まで時間を潰すための口実に違いない。

 2人はパーティションの間の通路を進んで、見るともなしに絵を見た。このたびの催し物の目玉のひとつであるらしい、クロード・モネの「睡蓮」の絵の前に5、6人の客がおり、くせ毛の男とその友人も絵の前で立ち止まった。絵の説明係(れっきとした学芸員)は観客に向かって熱心に、長々と絵にまつわるエピソードなどを披露した。説明が日本語で行われたため、くせ毛の男は友人に通訳を要求した。

「家族が死んで、眼が見えなくなっても絵を描いたそうだ」

 金髪の彼は、延々続いた解説を極めて短く要約した。

 くせ毛の男は露骨に、それだけ?という顔をした。

学芸員(かれ)はもの凄く沢山話していたじゃないか。面白い話はなかったか?」

 金髪の彼は黙ってくせ毛の男を見上げた。そしてふいと踵を返した。

 会場の入り口まで戻り、そのまま出て行こうとしたところで、背後からやや乱暴に首を捕まえられた。

 くせ毛の男は、友人の首にスリーパーホールド気味に腕を回して軽く絞めた。友人は抵抗しなかった。そのままもとの方向へ連れて行こうとして入口の受付係と眼が合った。受付係の眼が、プロレスごっこはよそでお願いしますと雄弁に語るのを見て、くせ毛の男は笑みを返した。

 男はパーティションの向こうのひと気が少ない所へ友人を引きたてていって腕を放した。

「今、帰ろうとしたか?」

「ここにいる理由がない」

 友人の彼は平淡に云ってから一つ咳をした。圧迫された頸動脈のあたりを軽くなでた。

 男は嘆息した。

「帰る理由もないだろう?」

「・・・ある。すぐに帰ると云った・・・」

「帰って、どうする?」

 金髪の彼は黙り込んだ。

 くせ毛の男は友人の頭をぞんざいに二度ほど撫でた。

「きみも本当は俺と話をしたいはずだ」

「・・・したくない」

「・・・見ろよ、それは何の絵だ?」」

 男は友人が背を向けた壁にかかる絵を指差した。

 友人は促されて身体の向きを変えた。

 白か又はグレーの濃淡で描かれた、雪が降るような薄暗い曇り空の下の教会の絵であった。

 金髪の彼は関心のない眼を絵に向けたまま、「建物の絵だ。白い」と云った。

「モーリス・ユトリロだ。日本でも人気があるらしい。彼の絵には教会を描いたものが多くて、これは『白の時代』の代表作だよ。この壁の白の色には、絵具に砂を混ぜたり、色々な材料が遣われている。ユトリロの作品の中でも特に人気が高い」

 くせ毛の男が、絵の横の壁にはめ込まれたプレートに眼を向け、そこに書かれた文字を読むように云った。実際には文字はほとんど日本語であり男には読めないはずなので、単なる知識で云ったことが知れた。