その男は、スーツの上着を脱いだ格好で、ネクタイを申し訳程度に首からぶら下げ、青いストライプのシャツのボタンもだらしなくいくつかはずしていた。空調が切れて蒸し暑くなった車内から出てみたものの、外がさらに蒸し暑かったため、不快げに顔をしかめた。眉間に、細い月型の赤茶色の傷痕があった。
金髪の彼が男を確認し、「D」と口の中で云った。
「氷河、『D』じゃない。紹介が遅れたな。こちらは『一輝』、新入りだ」
黒髪の男が白けた声で云った。
云われた金髪の彼は黙って黒髪の男を見た。
黒髪の男は、相手の無言と表情のない眼差しを非難と受け止め、仕方なさそうに説明した。
「先の事件の凶悪犯は、記録上抹消された。今後、『D』は一切禁句だ。『一輝』と呼べということだ。臭いものにフタしたいのは俺じゃない。処分しないように参謀殿が話をまとめたが、すぐ研究機関のあるサニーベールの支社へ行って、ほとぼりが冷めるまでこっちへ戻ってくるな、という条件が付いた。向こうの支社は毛色の変わったアームが好みで、サイコでもシリアルキラーでも喜んで受け入れるそうだ。自由の国だけに発想も自由だな。そういうわけだから、お前は羽田へ」
「何で俺が」右手のキーに視線を落として元患者が呟いた。
「参謀殿は、事情を知っている人間だけで、迅速かつ穏便に事を運びたいそうだ」
「違う。瞬が行けばいい・・・あいつは」
「あいつは忙しいが、お前はヒマだろう。『D』・・・じゃなくて、『一輝』が、チェックインするまでつき合えばいいそうだ。そしたら、家の住所が車のナビに入っているから、そのまま車で帰ってこいよ」
金髪の彼は、なるほどそれで、「例の件」が「退院のついでに片付く」わけかと納得したが、気に入ったわけではなかった。
「お前は何で、ここで降りるんだ?」
「お前のおかげで、俺はようやく非番にありつける。車の中で煙草を吸う奴にはうんざりだし、昼食もまだなんだ。他に理由が要るか?」
近くでライターの着火音がした。二人が音のした方向へ顔を向けると、スタンド灰皿の傍らに立った長身の男が、落ち着き払って煙草の煙を吐き出していた。
二人の視線に気づくとこちらを見て、「つまらんことで、よくいつまでもモメていられるな」と嗤った。
長い黒髪の男の眼光が、一触即発の気配を帯びて鋭くなった。
金髪の彼が周囲を気にするように少し視線を動かした。出し抜けに、「分かった」と云った。
「じゃあ、行く」
黒髪の男は、相手の感情が読めない面を見た。
「・・・急に聞き分けがいいな。どうした?」
「お前が、らしくないからさ」
金髪の彼は運転席のドアを開けながら、吸い終わった煙草をスタンド灰皿に押し付けている男を振り返った。
「道に慣れてない。お前は助手席に座ってナビをしろ。俺も煙草は嫌いだ。中では吸うな」
長身の男は、分かったとも分からないとも云わなかった。
羽田行きの荷物が自ら助手席に乗り込むと、運転手はエンジンをかけてフロントドアガラスを開け、黒髪の同僚に声をかけた。
「昼飯を食うつもりなら、ここの食堂はやめたほうがいい。云っておくが、ついてくるなよ」
長い黒髪の男は、運転席に座った金髪の同僚を見て、一抹の不安を覚えた。シートベルトをしないのは商売柄としても、ハンドルにだらりと片手を引っかけている態度は優良ドライバーのそれではなかった。恐らく免許を取得できる年齢でないとかは、とっくに会社が組織ぐるみで非合法なので、今さらたいした問題ではない。要は、他人に迷惑をかけないように運転しさえすればよいのだが、金髪の同僚の出身はロシアと云うことだった。とある統計によれば、ロシアは世界で最も車の運転が危険な国のひとつであるという。
「いいか、穏便に、だ。安全運転。左側通行。事故るな」
運転席をのぞきこみ真剣な顔で注意を並べる黒髪の男に向かって、金髪の運転手は微笑んだ。
ベンツが発進し、車寄せを回ってほどなく黒髪の男の視界から消えた。エンジン音が一気に高くなったと思うと、ノイズを巻き散らかしながら恐ろしい速さで遠ざかっていった。