0才9ヶ月の時に免疫疾患の難病を発症し、それからは感染を避けた生活をしていました。
それがどれだけ大変で苦しいことか子育てをしたことがある人はわかると思います。
歩きたい盛り、好奇心旺盛で見たいものがいっぱい、ちょうど親がしんどくなって保育園に入れ始める頃。
みんながアンパンマンミュージアムや水族館に行っている時も、ずっと自宅付近にいた。
考えられないと思います。
平日も土日もずっと。
毎日が死ぬほど長い。
でも1日3回の服薬の時間だけは、何故かあっという間に来る。
ステロイドで見た目はパンパン。
副作用で夜中目を覚ますようになり、1歳なのに卒乳まで続いた毎夜6回の授乳。
当然毎日私は寝不足。
ボロボロの私を見かねて、友達がお見舞いにくれたスタバのチケットも、使えないまま期限が切れてしまった。
娘だけではなく、私も感染したらどうしようと思うと、スタバにすら怖くて入れなかった。
どこもかしこも菌だらけに見える。
公園に子供が来たら、「帰ろう」と血相変えて逃げた。
普通の子育てをしているこの世の親が全員憎い。どうして私だけ。
保育園から帰ってくる子供と親を見ると動悸がするので16時以降は絶対に外に出なかった。
当時インスタなんか見れる訳もなく、今も他の人の投稿はあまり見ないようにしています。
夏は地獄だった。
みんながイオンやプールに行っている間、人のいない商店街を歩かせて、たまにお寺や神社の階段で娘と休んだ。
8月の40度近い日もそうやって過ごした。
家にいたくない私の外出はこれしかない。
悔しくていつも1人で泣いた。
難病関係の申請書を出しに、保健所に行ったら
「猛暑の中、涼しくて感染を避けて遊べる場所がない」という私のコメントを見た職員が大丈夫ですか?と声をかけてきた。
「本当に困ってます。でもいいです、自分でなんとかするので」
「そんなこと言ったって、お母さんが公園作れる訳じゃないでしょう?」
今でもこのことをよく思い出す。
この人、私がどうにかしてくれって言ったらどうするつもりだったんだろう?
公園作ってくれるんだろうか。
私は失笑しながらその場を去った。
言ったってどうにもならないことくらいわかってるから。
近くに観光施設があり、そのフリースペースによく遊びに行った。
遊びに行くような場所ではない。休憩する場所。
でもそこくらいしか、猛暑と感染を避けて私たちが気楽に入れる場所がなくて…。
ここに集まるメンバーは、いつも決まって、訳ありの3組。
私たちと、知的障がいのお子さんの親子、何らかの障がいがあり、電動バイクで移動しているおじさん。
別に、誰も一言も話しません。
ただ、ここにいる訳ありメンバーにとって、貴重な快適で人の少ない場所だというのは、よくわかった。
たぶんこのメンバーは全員、積極的にイオンに行けない。ここしか来る場所がなかったんだろうと思う。
毎日がどんなに最悪でも、近所の美しい景色には心救われた。
景色や自然が人に与える癒しをこのときほど感じたことはない。
「ヨシ!」と思えたし、とりあえず気持ちをスッキリさせてなあなあにできた。
でもこういう自己解決を続けていると、やっぱり心がおかしくなっていった。
人間には互いに理解し合うコミュニケーションが必要なのだと思う。
本当はわかってほしい。
この辛さを、家族以外の人にわかってほしい。
でも私の言葉は人を困らせる。
みんな、なんて私に声を掛けたらいいかわからないのが伝わって
今は一生懸命私を傷つけないように考えてくれていたんだとわかるんだけど、
ごめんなさい、でも当時はもう、それが何よりも辛くて、
みんながどう声をかけていいのかわからない状況は、私の24時間そのものだったから。
じゃあそれを生きてる私って何なんだと、孤独がさらに深まった。
猛暑が終わる頃には、もう誰にも自分のことを話さないようになっていた。
ここまで読んで嫌な気持ちになった人もいると思います。
でももうこの時の心の扉を開けると、
他人を八つ裂きにしたいほどの妬みと憎しみでいっぱいになり
誰も傷つけないように「大変だった」と濁すことは、当時の必死だった自分を否定することになるから
包み隠さず話させて欲しい。
娘のことは誰よりも大切で大好き。
一緒にいれることはとっても幸せ。
病気の子が不幸だなんて、絶対にないと言い切れる。
それは大学病院の小児科病棟で、いろんな難病児とママと過ごしてよくわかった。
とはいえイヤイヤ期の1歳児と24時間一緒にいる辛さはまた格別。
病気のこともしんどかったけど、育児の辛さはダブルで効いた。
どこにも連れていってやれないことと、育児のしんどさが相まって、精神的にどんどん参っていった。
娘が2歳半くらいのときだったと思う。
子育てをしている健常児の母親と話すことは絶対にしたくなかったから、普通がわからない。
毎日何にもしてやれてない。
ニュースで見る虐待して殺してしまう母親と私は何が違うんだろう。
わからなくなって、台所に包丁がでていると動悸がするようになり、怖くなって市の保健師に助けて欲しいと震える声で電話した。
その日のうちに話を聞きにきてくれた。
一人ぼっちの私に、久々に、少しだけ社会が介入した瞬間だった。
保健師さんは、よく話を聞きにきてくれた。
この時あたりから、歯車が少しずつ上手に回り始めた。
私には、家族でもない、友達でもない、そういう人に話を聞いてもらう必要があったんだと思った。
家族や友達には、プライドが邪魔するから。
特に幼稚園の見学では本当にお世話になった。
当初こども園を想定していたけれど、幼稚園を検討できたのは完全に保健師さんのアドバイスのおかげ。
5軒くらい見に行ったけど、配慮が必要な娘のために、見学はすべて園長先生の面談付き。
「うちの子は入園できますか」
この質問をするたびに心臓がキュッとなった。
みんな優しかったし、
「よくここまで頑張ったね。この子はお母さんから離れることを怖がらないね。ちゃんと育ててきたんだね」
と言ってくれた。
保育に携わるプロからのこの言葉は私を救ってくれた。
どの面談でも号泣して帰った。
この頃から風向きがまた更にいい方に変わり始めた。
ステロイドも免疫抑制剤も完全オフになり、発症から中止していた予防接種を再開できるようになった。
予防接種の力は絶大だった。
やっと子供のいる場所にも連れて行けるようになった。
水疱瘡すら打ててなかったので…。
私は産後初めてのスーパー銭湯に行けた。
今までは私自身への感染が怖くて我慢していた場所だった。
人間関係も変わり始めた。
ずっと自宅付近にいたので、近所の商店街の人たちと仲良くなり始めた。
やっと普通の会話が私の日常に戻ってきた。
ある日、私が1人で歩いていると、話したことのない八百屋のおじいさんが話しかけてきた。
「おい、今日はお嬢ちゃんはおらんのか。
前、商店街で歩く練習してたやろ、かわいらしいなあ」と。
娘と過ごした昨年のあの地獄の夏を見てくれていた人がいたんだと思うと、
嬉しくて泣けて、
気がついたら娘の病気のことも話していた。
「そーか!俺と一緒やな!」と
心臓を指さした。ペースメーカーをつけているそうだ。
商店街にはおじいとおばあしかいない。
でもそれが気楽だった。
同年代の人には難病だと言うと、気の毒そうな顔をされるが、年寄りは「そーか!」とか「治る治るー!」と言ってくれる。
友達にはどうしても自分と比べてしまって言えなかったけど、年代の違うここの人には気楽に話せた。
商店街の人に会いに行くために、毎日娘を連れていった。
すると、娘の人見知りが徐々に治り、大人を信用するようになってきた。
今もお喋りが上手だと言われるのは、おそらく大人と絡む回数が他の子供より多いからだと思う。
住んでいる市内から出れなかったけど
その分あったかい地元の人と仲良くなれた。
私がここに引っ越す時、友達が「あんたは住む街を自分の都にする力がある」と言ってくれたことを何度も思い出した。
このコミュニティは私だからできたことだと、次第に自分にも自信を持てた。
たくさんの人に支えられながら、今年の春、ついに娘は予防接種を同い年の子供と同じところまで打ち切ることができた!!!
これで最低限、安心して入園させることができる。
まだ不安もあり、すぐには働けないので幼稚園だけど、娘にとってこの選択も間違ってなかったと言えるといいなと思う。
娘にはたくさんのことをしてやれた。
動悸がしていた時とは違う。
いろんな人の助けによって、今は「してやれたこと」に目が向けられるようになった。
図書館で年間300冊以上の絵本を読み
近くの水辺で季節を感じ
田舎の大きな自然の中で、たくさんの生き物が生きていることを教えてあげられた。
私にとっては、かけがえのない日々です。
あんなに嫌だったのに、今は自宅保育でよかった。
でもそれを言っていいのは、この世で私だけです。
心も体も、娘にすべて捧げた3年だったから。
私は発症時、毎日のようにベビーカーを押して神社にお参りに行っていたけれど、
いつしか毎日掃き掃除に来る神社の親族のおばあさんと話すようになった。
娘の減薬が進み、どんどん良くなる姿を喜んでくれた。
先日、桜の時期に娘を連れて、神社に記念写真を撮りに行った。
喜んで動き回る娘を見て、
「こんなに元気になって、お母さんのおかげよ!!あなた、これからなんだって乗り越えられるよ!!」
と言ってくれた。
嬉しくて泣きそうだった。
本当は誰かにそう言って欲しかった。
娘は勝手に元気になったんじゃないから。
明日はついに入園式。
今日は一緒にゆっくり過ごせる最後の日なのに、いつも通りの1日だった。
でもいつも通りが何よりも特別なのを私は知っている。
今日もいつも通りの1日が過ごせて、とっても幸せだった。