たんたん評論「短歌の作り方」

 

 

 ブログ主はこれまで「返歌の作り方」や「折句の作り方」等について書いてきた。ただし、そもそもの短歌というものを作る方法について述べていなかった。そこで、今回はブログ主の信じる短歌の作り方を説明しようと思う。

 

 ただし、世の中には現在まで数多くの歌人が居て、彼ら彼女らは主に初心者向けに短歌の作り方について解説した書籍を出版し、あるいは結社や総合誌等において短歌愛好家が制作した作品を添削指導する等をもって、短歌の作り方を示してきた。

 

 

 また、最近では国語の教科書等においても短歌の作り方を説明するようだ。さらには、優秀作品の魅力を解説する評論を読むことによって、児童生徒においても若いうちから短歌の才能を発揮する者も居ることだろう。

 

 ただし、そうした従来のやり方はブログ主の考えるそれとは異なる。なお、ブログ主は自身の制作する作品を「現代和歌」と自称しており、これは現在広く行われている「現代短歌」とは異なるので、作り方が異なるのも当然のことだ。

 

 

 それでは短歌の作り方を示そう。その過程は凡そ3つのステップがある。

 

 まず、何かをテーマに、入試の小論文程度の文章(400字詰原稿用紙3枚分)を書く。ただし、これは決して「日記」ではなく、他人に読んでもらうために書く「手紙」である。

 

 次に、上記の文章において作者が最も伝えたいことを抜き出す。なお、世間一般にはなかなか思いつかないような、気の利いた表現や言い回しを交える。

 

 最後に、抜き出した一文について、五句三十一音の韻律が響くように、言葉を入れ替えたり並べ変えたりする。以上である。

 

 

 ちなみに、それは短歌ではないが、たいへん面白いサンプルを一つ挙げよう。

 

 Youtubeには様々な音楽関係のチャンネルがあるが、「back number」という日本の有名なグループが歌った「クリスマスソング」という楽曲のビデオを視聴することができる。

 

 なお、このビデオには数多くのコメントが付いている。そして、注目すべきはこの記事を書いている2023年9月20日現在において、大量の「いいね」を集めて上位に表示されている、「クリスマスの季節でもないのに」から始まる秀逸なそれである。

 

 このコメントはたった三十文字程度をもって、当該楽曲の本質的な価値を的確に表現しているだろう。言い換えると、「歌詞が良い」や「歌手の声がスキ」なぞといった陳腐な誉め言葉を超越しており、そのユニークな着眼点には驚かされる。

 

 こうして職業的な広告宣伝のキャッチコピーでなくても、例えば字数制限のあるX(旧ツイッター)等においても、広く世間一般に評価される「すてきな一文」を表現できる才能すなわち芸術的発想力が、歌人には求められるかもしれない。

 

 

 前置きが長くなった。それでは、具体的に制作してみよう。

 

 まず、他人に訴えたい文章を書く。今回は「コンビニ」をテーマにした。

 

(ここから)

 

 ブログ主の家の近所にコンビニが本日オープンした。歩いてほんの二、三分で、近くて便利だ。そして、ブログ主が起きている間は必ず営業していて、大変便利だ。

 

 ところで、コンビニとは「コンビニエンスストア」の略である。なお、コンビニエンスは「convenience」を聞こえる通りにカタカナに直したものだが、漢字で書けば「便利」という概念に相当する。したがって、コンビニを直訳すれば「便利なお店」だろう。

 

 ブログ主は年に数回ほど、東海道から山陽道までをクルマで走る。高速道路を走ると、コンビニが営業しているサービスエリア等も増えてきた。もちろん、雪や渋滞の影響でたまに下を通る際にも、山間地の田んぼや畑が続く道に明かりが見えたら、それは人家ではなくてコンビニだったりする。

 

 このように日本中至る所にコンビニがあれば、未だ田畑の残るようなブログ主の住む地域も例外では無い。いつかは必ずと思っていたが、その日は意外と早くやってきた。

 

 ただし、世の中にはコンビニを一度も使ったことの無い人も居るだろう。凡そご高齢であれば、既存のスーパーで野菜や肉や魚などを買い求め、自分の好きな味付けに料理して、毎日三度の食事を楽しむ習慣を変えない方も居ることだ。そうした人々にとって、生の食材が凡そ置かれないコンビニは決して「便利なお店」では無い。

 

 ちなみに、現代において和歌を詠むブログ主ではあるが、こと食事に関しては、全国各地の歴史と伝統を守った風土料理よりも、全国で統一された味付けのお弁当やレトルトを選びがちである。地元の皆さんには大変申し訳無い。

 

 さて、こうした利便性は標準化を推し進め、他方、独自性や特殊性を犠牲にする。お正月の三が日くらいはお店もお休みだった時代には、市場や商店街は年末の買い出しで賑わったものだ。

 

 ただし、コンビニが年中無休で営業し、そして、スーパーやショッピングセンターも右に倣えば、買いだめする習慣も消えて、そうした市場や商店街も姿形や役割を変えざるを得ない。

 

 そして、こうしたコンビニ等によって標準化された日本人の日常生活に対抗して、各地の観光地も独自性や特殊性を「売り」にして生き残りを図るだろう。端的に言えば、全国共通のコンビニとは正反対の「そこでしか手に入らない」というシズル(sizzle、財やサービスの「価値」や「魅力」を指す)を一所懸命に謳い、集客を図ることだ。

 

 総じて地域の活性化は困難な道のりであろうが、ヒト、モノ、資金や知恵などを様々に出し合って、明るく楽しく、そして、素晴らしい地域社会を目指して努力されている方々に敬意を表するものである。

 

 そうした社会構造の変化なぞといった問題はさておいて、そして、個人がコンビニを便利に思うか思わないかに拘らず、それが24時間ずっと営業していれば、そこだけ一日中ずっと明るいことは紛れもない事実である。

 

 早寝早起きの習慣が未だ残る田舎であれば、都会よりもちょっぴり早く夜が来る。そんな陽の沈みかけた夕方にコンビニの看板がほんのりと灯れば、それは昼の時間をほんの少し延ばすような、すこし不思議の世界の入口かもしれない。

 

(ここまで)

 

 

 次に、上記から作者が最も訴えたいポイントを抜き出すと、それは「ブログ主が住んでいる土地は田舎だが、最近になってコンビニができて、朝晩が早い暮らしにおいて少しだけだが、明るい昼の時間が伸びたような気がする」という点である。

 

 また、もしもコンビニが便利なものであれば、それは「ドラえもん」の少し不思議(=SF)な道具のような存在だろう。そして、その道具は通常「のび太君」を助けるためのものであれば、洒落では無いが、一日の時間が「のびた」というメリットをもたらすだろう。

 

 

 以上から、最終的な五句三十一音は次のようになる。

 

我が村にコンビニできてちょっとだけ時間がのびたような一日/ブログ主

 

 

 もちろん、上記の作品を読んでも、元の文章の全体像なぞ決して分からない。ただし、短歌は論文ではなく、物語でも小説でもなく、そして、日記でもない。

 

 もしも、短歌が手紙であれば、大切なことは些末で表面的な有り様の紹介なぞではない。それは読む者に訴えんとする作者の思いである。

 

 

 それでは、皆さんも短歌を明るく楽しく詠んでいただきたい。えっ、「今回の評論もやっぱり、短歌の作り方の説明になっていない」ですって? 申し訳無い。本当は(作り方)なぞというものは無い。皆さんの創意工夫次第である。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

クローバー