たんたん短歌365「素数」

 

 

よく聞けば九九の答えが素数なり せめて何かで割り切れぬのか

 

 

 

 或る日、我が子が一生懸命に「九九(くく)」を唱えているのだが、途中でつまったり、間違えたりする。しかも、考えた末の答えがなぜか素数(そすう)であったりする。

 

 ちなみに「素数」とは「1とその数自身以外に正の約数がない正の自然数(ただし、1は除く)」のことである。一度聞いただけでは、普通の小学生には何のことやら分からないかもしれない。

 

 

 ともかく掛け算なのだから、せめて2や3で割り切れる答えで間違ってほしいものだ。短歌を詠む父に配慮して「しはさんじゅういち(=詩歌は三十一音)」などと言わずに、例えば「さんじゅう(30)」とか「さんじゅうし(34)」とか。

 

 ちなみに、短歌における五句のそれぞれの音数である5や7は素数であり、また、五句を合計した一首全体の基本的な音数である31も素数である。そして、これも恐らく偶然だろうが、俳句の一句全体の音数の17も素数である。

 

 

 さて、九の段までなんとかたどり着いた後で、子供の覚えの悪さに怒りと笑いに震える女房と、「数学」まで話が飛んだ。妻は、アメリカ映画のテレビ放送は必ず英語の副音声で見るほど高学歴である。それで、数学が自然科学に(もちろん社会科学にも)含まれないという分類を知っていた。

 

 つまり、数学は「形式科学」というものに含まれ、簡単に言うと、他の学問のように「現実」を取り扱うものではなく、「理論」を取り扱う学問である、ということらしい。純粋に論理的に判断が行われる非常に美しい世界であり、言い換えれば、是か非か「割り切れる」世界とも言えるかもしれない。

 

 

 他方で私たちを取り巻く自然界や人間社会には、「割り切れない」ものが数多く存在する。そして、「あちらを立てれば、こちらが立たない」現実を目の前にして、そうそう簡単に結論など出せはしない。

 

 例えば、円盤に取っ手が付いたような形をした宇宙船の中で、耳のとがった人類から、昔かたぎの地球人の船長が宇宙で遭遇する様々な割り切れない物事に悩む姿を、そして、いくぶん情緒的な対応を「非論理的」と文句を言われても、やはり人は悩むものなのだ。

 

 

 私たち短歌を愛する者も、自然や人間社会を詠う際に、現実の世界では数学のように「美しく」は無い、そして、「割り切れない」物事や事件に出くわすことがある。その際に、それをどのように取り扱うかは作者の判断に委ねられており、正解なぞはどこにも無い。

 

 いずれにしても、私たちは生きてゆくうえで、こういった「割り切れない」ものと上手に付き合っていくしか無いのだろう。なぜなら、論理を追究して文明が進歩するかもしれない未来はさておき、人間は今のところ社会的動物であるのだから。

 

 

 それにつけても、短歌は難しい。それでも、短歌は明るく楽しく、そして、素晴らしいものだ。

 

 

(歌:2012年4月1日初出、日本経済新聞朝刊)

(文:2012年10月10日初出、一部加筆修正)

 

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